2022年3月6日 「神に望みを」 イザヤ書40章27-31節 

 与えられたテキストはイザヤ40章27-31節です。イザヤの祖国の南ユダの王はエホヤキムでした。エホヤキムはバビロニアの王ネブガドネツァルに対して反乱を起しました。それに対抗し、ネブガドネツァルは南ユダに侵攻し、エホヤキンと家族、高官、技術者、職人ら多数を捕虜としてバビロニアに連行しました。その次の王ゼデキヤ王もバビロニアに対抗し、エジプトに援助を求めました。南ユダは再びバビロニアによって倒されました。ゼデキヤ王は両目を潰され、手枷足枷をはめられ、多数のイスラエルの指導者と共に、バビロニアに連行され、殺されました。それから60年にわたって、いわゆる「バビロン捕囚」の時代が始まり続きました。
イスラエルの歴史の中で最も苦難な時代でした。イスラエル人は敵国バビロニアで不自由な生活を強いられ、苦しい生活が続きました。さらに、彼らを苦しめたのは、将来、未来が信じられない信仰的、精神的な苦悩でした。榎本保郎先生は「人間は希望を失うと、生きていても死人同然となる。人間は希望なしには、あるいは未来を信じることなしには生きられない」と言います。イザヤの時代は希望を見出せない、絶望と暗闇の時代でした。
27節に「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」とあります。この「道」は「デレク」と言い、「運命、人生」と言う意味です。「裁き」は「ミシュパート」と言い、「訴え、権利、公正な裁き」と言う意味です。わたしの運命、或いは、神によって定められた正しい道が分からなくなり、明日はない、未来はないと絶望したというのです。
28節から31節の4節に「倦む」、「疲れる」と言う言葉が6回出てきます。「倦む」は、漢字で人(ひと)偏に巻くと書きます。人が体をぐったりと曲げ、疲れて憂うつになった姿を表します。「疲れる」は、「やまいだれ」に皮です。ぐにゃぐにゃ曲がって、しゃんと立つことができない様を意味します。「倦む、疲れる」という言葉は当時の捕囚の人々の現実を表しています。イザヤは捕囚の一人で、このように倦み疲れた人々を見て、自分もそのひとりであるというのです。
青少年の意識調査を見ますと、最近の子どもたちは大変疲れているという結果が出ています。本来ならば子どもたちは、目を輝かせ、生き生きとしているのですが、今はその目の輝きを失っている。子どもたちも倦怠感、虚無感に襲われ、未来が奪われているというのです。子どもたちの世界は壊されているのではないでしょうか。その意味では現代社会には歪みがあります。
イザヤと同世代の預言者エレミヤによれば、バビロン捕囚時代の人々にとって重大な問題は物質的、経済的問題ではなく、底知れない虚無感、人生の絶望感、信仰の問題であるというのです。神を信じていても仕方がない。一生懸命に生きても意味がない、人生ってこんなもんだよと割り切ってしまう、そのような精神的危機がイスラエルの民を襲っていたというのです。
28節に「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。」とあります。イスラエルの捕囚の人々は自分たちの置かれている現実を見て、神も倦み疲れていると絶望していました。しかし、イザヤは、神はそのような方ではありません。神は天地の造り主であり、その創造の力は、今もなお生きて働いているというのです。イザヤは60年にも及ぶ捕囚の中で倦み疲れ、神の真実が見えなくなってしまったイスラエルの民に、神の真実を告げ知らせるのでした。
31節に「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」とあります。鷲は古代イスラエルにとっては、自由と力強さの象徴でありました。鷲は羽が古くなると、新しい羽に替えて、力強く高く飛んでいくそうです。島崎藤村の「鷲の歌」はここからヒントを得て作詞されたと言われます。鷲は止っている木に爪を立てて海から吹いてくる潮風に身をさらし、強風に乗って、岩肌に自分をぶっつけ、血だらけになって、古い羽を落し、新しい羽に生え替わり、新しい翼を張って、今まで飛べなかった高さを遥かに越えて飛んでいくそうです。イザヤはその新しく生まれ変わる鷲の姿を描き、捕囚の民に「神に望みをおく者は、神の未来がある」と力強く語りました。
「夜と霧」の著者ビクター・フランクルは、「人間は希望なしには生きることはできない。希望を抱くことよって生きる存在である。しかし、人生は希望どおりにはいかない。希望はいつも欺かれる。日常的希望と根源的希望が常に対極している。聖書の希望は究極的、根源的な希望である」といいます。
31節に「主に望みをおく人は新たな力を得。鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」とあります。フランクルも「主にのみ望みをおく人は新たな力を得る」と言います。他の何者でもありません。人や物に永遠の希望をおくのではではありません。永遠の希望は主なる神への希望です。それは、何時でも、何処でも、神を信じれば与えられる希望です。神の希望は古い羽を捨て、新しい羽が生まれ変わり、新しい翼を立てて、自由に空高く飛翔させます。自由に、生き生きと天高く飛び立つというのです。いつも厳しい時代は続きます。しかし、失望落胆し、絶望することなく、希望の主イエス・キリストを見上げて歩んでいきましょう。