2022年4月10日 「十字架の道行」イザヤ書50章1-11節

レントと受難週でイエスの十字架の道行き辿る季節です。ガリラヤのナザレで成長されたイエスが十字架に付けられたのは30歳頃でした。バプテスマのヨハネと出会い、彼の影響を受け、故郷のナザレを出て、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じよ」と宣べ伝えはじめました。しかし、直ぐユダヤ主義者の反対に会い、迫害されました。多くの人に捨てられ、弟子たちにも裏切られ、ローマの総督ピラトに捕えられ、裁判にかけられました。不正な裁判を受け、嘲笑され、罵声を浴びせられ、つばをかけられ、多くの群衆の前でただ一人十字架に付けられ、殺されました。イエスの生涯の終わりは、実に苦難と孤独と絶望の最後でした。
同じことは預言者イザヤについても言えます。イザヤの人生の後半は苦難に満ちたものでした。バビロンの当局に捕らえられ、獄中に閉じ込められました。イザヤは、イエスに加えられた迫害と苦難の中でイスラエルの人々を救うために活動され、労苦されました。
5節、6節に「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、髭を抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」とあります。イザヤはイスラエルの人々の救いのために、苦しみを引き受けました。イザヤはなぜそのような苦しみを担うことができたのでしょうか。誰だって苦しみに会いたくありません。或る方は讃美歌321番の1節の「来たれ、来たれ、苦しみ、浮き悩みも、いとわじ」は嫌だと言います。或る人は苦しみを自ら求める必要はないし、苦難を自分から買って出る必要はないと言います。しかし、それでも、世の不条理や苦難はわたしたちを襲います。問題は苦難に遭遇した時、苦難をどう受け止めるかということではないでしょうか。それを忌まわしいものとひたすら拒絶するか。或いは、運命と呪いつつ諦めるか、それとも逆に、苦しみに本当の意味を見出し、神の真実を発見していこうとするか。そこに、人生の分かれ道、人生の真実があるのではないかと思います。イザヤは不条理の苦難を自ら引き受け、その苦難を乗り越えました。イエスは、また、イザヤはその信仰と忍耐は何処から与えられたのでしょうか。何を支えとして苦難を負われたのでしょうか。
7節に「主なる神が助けてくださるから、わたしは嘲りとは思わない。」、9節に「見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。」とあります。このイザヤの神への信仰がイザヤを支えました。預言者イザヤは神への信仰なくして、苦難に耐えることはできませんでした。「見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう」と、繰り返していますように、神は必ずわたしの正しさを明らかにしてくださる。神はわたしたちの側に立って、わたしたちを支えてくださり、勝利に導いてくださると告白しています。イザヤはその神の信仰の真実を徹底的に信じたのです。
10節に「お前たちのうちにいるだろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩く時も、光のないときも、主の御名を信頼し、その神を支えとする者が。」とあります。協会訳は「暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神を頼る者は誰か」となっています。光が見えていれば、信じることができるのではないでしょうか。問題の解決の糸口が見えていれば受け入れることができるのではないでしょうか。しかし、イザヤの場合、そうではないのです。今なお、光が見えない、糸口は見えない闇の中を歩いているのです。イザヤはそれでも神を信頼し、従うことができるかと、わたしたちに問いかけているのです。
トゥルナイゼンは「イザヤ書50章の言葉は自分の信仰を問い直させる。光を得たからではない。光を得なくても、なお、主の名を呼び求め、主により頼む者は誰か。このような問いが神からわたし自身に問いかけられている。それに応えていく。同時に、暗い中に歩いている者に対して、光を指し示すことができる。そこに信仰の使命があるのではないか」と言っています。
ルオーに「この人を見よ」と題された作品があります。イエスはローマの兵士に後ろから羽交い絞めにされています。画面左上に太陽は出ているのですが、全体は丁度日食の時のように暗く描かれています。その中で、キリストの頭と白い衣には、黄色い光が射しています。左下には、顔も識別できないが群衆が立っています。群衆は闇の中を歩いていて、まだ光を見ていない人々のことを暗示しているようにも見えます。ルオーがこの絵で何を訴えているのか、わたしにはわかりませんが、深く考えさせられます。この絵画の題は「この人を見よ」です。光を得なくてとも、この人を見よと、訴えかけているようです。暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼みにしていくか。その神の問いかけに生涯をかけて答えていきたいものです。
ローマの信徒への手紙8章35節に「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」とあります。パウロは、わたしたちを襲ってくる迫害、艱難、苦難、危険に、わたしたちを愛してくださる神によって、勝ち得て余りがあると言っています。わたしたちの将来にどのようなことがあるか分かりませんが、このパウロの勝利の言葉を信じて歩んで行きたいと思います。