与えられたテキストはイザヤ書48章:1-16節です。1節に「ヤコブの家よ、これを聞け」、12節に「ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ」、14節に「わたしのもとに近づいて、聞くがよい」とあります。イザヤは、繰り返し「神の言葉」を聞くようにと預言しています。パウロも「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」と言っています。「始まる」は「生じる、来る、由来する」という意味です。臨床心理士の東山裕久さんは、「プロカウンセラーの聞く技術」と言う著書の中で、日本でも昔から「聞く」ことは、しゃべることより大切にされてきた歴史がある、「沈黙は金、雄弁は銀」「言葉多きは、品少なし」などのことわざのように、「聞く文化」があると述べています。わたしたちの信仰は「聞く」こと、それも神の言葉を聞くことに根源を置くというのです。
「モモ」という童話を書いているミヒャエル・エンデも、聞くことの大切さを言っています。「モモ」は不思議な力を持っています。モモに話を聞いてもらうと、争っている者が争いを止め、仲直りする。モモに話を聞いてもらっているうちに、自分たちはなんとつまらないことで争っていたのかと気付かされるのです。いつの間にか、もめごとがあると、「モモのところに行ったらいい」、「モモのところに行こう」と言うようになりました。
「モモいう本の中で一番大切にしているのは、『ラウシェン』という言葉である」と言われます。「ラウシェン」は、普通の「聞く」と言う言葉では言い表せない深みをもっている、相手の話を注意深く聞き、その人が一体何を言いたいのか、話し相手の心を聞くという意味だそうです。エンデは「聞く、相手の心を聞くということが一番大切だ」と言います。エンデは、現代人は忙しい。猛烈なスピードの慌しい生活の中で「聞く」ことを失っている。そのことを訴えるために、モモと言う作品を書いたと言っています。ロシアで戦争が起こりました。自国の大儀だけを主張し、相手の言うことに耳を傾けません。正に聞く力を失った典型的な例です。見る世界は広がっていますが、人の話を聞く世界は狭まっています。大学でも講義を学生に聞かせることに苦労されるそうです。預言者アモスは「パンの飢饉ではなく、御言葉を聞く飢饉が来た」と預言しています。いろいろな要因があると思いますが、現代人は聞く力を失っているのは確かです。
4節に「鉄の首筋をもち、青銅の額を持つ」とありますが、人の頑なさ、頑固さ、聞く耳を失った様を表します。8節に「裏切りを重ねる者、生まれたときから背く者」とありますが、神の言葉に耳を塞いで聞こうとしない人々のことを意味します。イスラエルはバビロン捕囚中で、長い間、苦難と希望のない生活を強いられました。その中で言葉を聞く力を失っていったのです。聞く力を失うことは、生きる力と将来を失うことを意味しました。世はこんなものだと割り切り、投げ槍になりました。その精神的な荒廃の中で、神の言葉に耳を傾けることが出来ず、耳を塞いでしまったのです。にも拘わらず、神は忍耐強く、「わたしに耳を傾けよ」、「わたしのもとに近づいて、聞くがよい」と語りかけ続けました。因みに、仏像は耳が大きく口が小さいです。つまり、仏はわたしたち人間の願いを聞いてくれる存在であることを象徴しています。聖書の神は「主よ、語りたまえ。僕聞きます」とありますように、語る存在で、聞くことを求める存在です。
8節に、「これから起こる新しいことを知らせよう、隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。」とあります。「これから起こる」は「新しいこと」を意味し、「第二の創造」を意味します。第一の創造は「天地創造」で、第二の創造はバビロン捕囚の苦難からの解放を意味します。神が「現れ出でよ」と言いますと、光と秩序、正義が造り出されました。神は創造の力とまつたく同じ力を持って、新しい歴史を創造し、救いの出来事を起されるのです。つまり、捕囚の苦難、罪の束縛、あらゆる執着と拘束からの解放です。その解放の力になる神の言葉を聞きなさい、というのです。
10節に「見よ、わたしは火をもってお前を練るが、銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる」とあります。「苦しみの炉」とはバビロン捕囚の苦難のことです。しかし、その苦難は捕囚の苦難だけでなく、わたしたちの人生に起こるさまざまな苦難を意味します。「炉」とは、溶鉱炉・鉱石を溶かして銑鉄,銅などの金属を取り出す炉のことです。つまり、あなたがたの味わっている苦難は、そこから良きものを作り出す「苦しみの炉」だというのです。
ヨブ記36章15節に「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」とあります。誰でも苦しみを好みません。「試みに遭わせず、悪より救い出し給え」という祈りは自然の祈りです。しかし、苦難は避けられません。苦難に直面したとき、神との関係で受け入れるならば、その苦難を意味あるものとされるというのです。「苦しみ」によって、耳が開かれ、これまで聞き流していた神の声に触れることができるといいます。パウロは苦難を通して、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に現れる」という神の救いの言葉を聞くことができました。この信仰告白の背後には、「肉体に一つの棘が与えられた」という彼の苦難があります。苦しみがなければ、神の声を聞くことはなく、救いの道は開かれなかったと思います。「主と、語りたまえ、わたしは聞きます」と心の耳を開き、御言葉を聞いていきましょう。