テキストはダビデ物語です。ダビデはベツレヘムのエッサイ家の一番末の弟で、まだ少年でしたので、戦に出られません。三人の兄たちはペリシテ人との戦いに出ていました。ダビデは父エッサイに言われて、パンとチーズを持って兄たちの陣中見舞いに行きました。そこでペリシテ人の戦士ゴリアトに怯えているイスラエルの軍勢を見ました。ダビデは「なぜ、あなたがたは無割礼のゴリアトを恐れるのか」と尋ねました。ゴリアトを恐れないダビデの話はサウル王に伝わり、やがてダビデは王の前に呼び出されました。ダビデは「あの男のことで誰も気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう」と申し出ました。最初サウル王は、「お前は少年だ。向こうは戦士だ」と言ってダビデを引き止めましたが、遂に自分の鎧や兜を与えて、戦うことを許しました。ダビデはその鎧と兜を身に付けてみますが、重くて動きがとれません。ダビデは川岸から滑らかな石を五つ選び、身に付けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手に、ゴリアトに立ち向かいました。
こうしてゴリアトとの戦いが始まりました。「お前は剣や槍や投槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日主はお前をわたしの手に引き渡される」と言って、小石を袋から取り出して、石投げ紐を使って飛ばすと、ゴリアトの額に食い込み、ゴリアトを倒したというのです。これがダビデとゴリアトとの戦い物語です。
ボンヘッファーは「天上の栄光の教会に対して、地上の教会は戦闘の教会である。誰にも信仰生活には『戦い』がある。信仰生活は一方で「平安」を求め、その平安が与えられ、その平安の中で生活する。しかし、その平安に『戦い』がないということではない。むしろ、常に信仰に戦いがあるということを認識していなければならない」と言っています。パウロもキリスト者を「キリスト・イエスの立派な兵士だ」と言って、信仰生活が戦いの連続であることを強調しています。
ダビデはゴリアトとの戦いでしたが、わたしたちの戦いは、何でしょうか。何にと戦うのでしょうか。一つには、誰もが経験している罪の誘惑との戦いです。わたしたちを神から引き離そうとするいろいろな誘惑を経験します。その罪の誘惑との戦いです。ルターは、「キリストの救いについて『罪と死と悪魔の力』から救い出してくださった」と言っています。ルターの言う死と悪魔、それに伴う不安と絶望との戦い、孤独と悲惨に耐える戦いがあります。また、病気との戦いがあります。若い時だけでなく、年を重ねても、常に自分自身と、死の恐れや思い煩いや孤独との戦いがあります。そうした戦いの中で、神を信頼することを止めない。それが信仰の戦いであるといいます。
ダビデ物語を見ますと、イスラエルの軍勢はゴリアトに「恐れおののいた」とあります。これは暗示的な言葉です。つまり、信仰の戦いの相手はいつも強敵に見えるのです。福音を信じている者が戦う相手は、人間を誘惑する罪であり、あるいは苦しめる試練であり、悩ませるさまざまな問題や課題です。それらは、どんな問題であっても、戦いに引き出されている者にとっては、とても自分の手に負えない事柄に見えます。ゴリアトの背丈は6アンマ半と言い、実に3メートルもあったといいます。少なくともイスラエルの軍勢にはそのように見えました。しかし、ダビデにとってゴリアトの巨大さはほとんど問題になりませんでした。恐れる相手ではないというのです。なぜなら、ゴリアトは無割礼の者、つまり、神のものではないからです。ダビデに本質的な問題は神のものかどうかです。罪はどんなに強敵に見えても、無割礼です。死もどんなに恐ろしいものであっても、無割礼です。つまり、神のものではありません。福音を拒否し、絶対的な力をもって襲ってくるこの世の力も、無割礼、つまり神なきものです。それがどんなに大きくても、無割礼の者は、神を信じる者を滅ぼすことは出来ないというのです。
47節に「全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主の救いを賜るのに剣や槍を必要とされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」とあります。問題は自分に力が「在る・無い」の問題ではありません。問題は「この戦いは主のものである」と信じている信仰です。戦う相手が罪の誘惑であれ、死であれ、悪魔であれ、罪であれ、その問題の大きさゆえに恐れおののくことはない。神の前においてはどんなに強敵でも、絶対なものはないというのです。
ローマの信徒への手紙8章31節に「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」とあります。そのような信仰と希望をもって強敵なゴリアトに臨みたいと思います。
私たちは御言葉を与えられ、戦場に派遣されるように、戦いに出て行きます。「この戦いは主のものである、主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされない」。この信仰を持って派遣されようではありませんか。エフェソの信徒の手紙6章10節に「最後に言う。主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」とあります。この御言葉をダビデが小石を握り締めたように握り締め、戦いの武器として、新しい生活に踏み出そうではありませんか。