与えられたれたテキストはマルコ福音書6章6-13節です。マルコ福音書が編集されたのは、エルサレムとローマの間に戦争が起こり、エルサレムが崩壊した紀元64,65年頃ではないからと言われています。ローマの皇帝ネロが自らを神のように絶対化し、クリスチャンを迫害した時代です。クリスチャンは地下の墓穴に隠れて、主イエスからこの世に遣わされているという信仰に立ち迫害に耐えました。その信仰の勝利と忍耐がマルコ福音書の背景にあると言われています。
テキストの表題は「12人を派遣する」となっています。マルコ福音書は「12十二弟子」、或いは「使徒達」とは言いません。「十二人」と言い、派遣信仰は弟子たちや使徒達に限られることではなく、わたしたち全ての者に関わることであるというのです。わたしたちにとって最も大事なことは「主イエスからこの世に派遣されている」という信仰です。礼拝の最後の祝祷の前に「慈愛の神が、わたしたち一人一人に与えて下さる人生の持ち場に向かって、主イエス・キリストの愛と平和を携えてでかけましょう」という「派遣の言葉」が宣告されます。わたしたちは主イエスの派遣の言葉に励まされ、それぞれのところに出かけて行きます。主イエスの派遣がわたしたち人生の根底にあるという信仰を告白します。
7節に「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ、一組にして遣わすことにされた」とあります。十二人をひとまとめに、遣わしたのでも、一人ずつでもありません、二人を一組にされているのです。主イエスのなさることですから、深い意味があります。なぜ、一人ではなく、二人ずつ派遣されたのでしょうか?いろいろな解釈があります。たとえば、一人が絶望しても、もう一人が絶望しないで、絶望する者を支えることができます。また、一人が躓き倒れて,立ち上がることができなくなっても、もう一人が手を差し伸べて、助け起こし支えることができます。
「種を蒔く人」のたとえのように神の国の伝道は厳しく、試練と苦難の連続です。それだけに神の国の伝道は二人、一組で行われたのです。パウロもバルナバと、テモテと、エパフロディトと、テトスと二人一組で伝道に携わりました。パウロは一人で伝道をしなければならなくなったとき、テモテに対して、「早く来て、支えて欲しい」という手紙を書き送っています。神の国の伝道は共働の業です。二人が一組になって遣わされたのです。自分は一人ではない、あそこの村では仲間が伝道している、こちらの町では別の仲間が伝道をしている。自分たちと同じ苦労をしている。お互いの労苦を偲びながら、祈り合い、支え合って生きている。孤立していません。主イエスは厳しい状況なのに絶望することなく、逆に、多くの者が集まったと自分の力を誇ることもなく、互いに支え合い祈り合って生きることを学ばせたのではないでしょうか。
主イエスは、十二人をお遣わしになる際に、杖一本のほか何も持たず。パンも袋も、金も持ってはならない。下着は二枚着てはならないと命じています。主イエスの意図はどこにあるのでしょうか。
ここで想い起こすのは、山上の説教の中で「思い悩むな」と教えられた言葉です。マタイ福音書6章25節に「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようかなにを飲もうかと、また自分の体のことでなにを着ようかと思い悩むな」とあります。主イエスに遣わされている人は、思い悩む必要はなくなると言うのです。また6章34節に「だから、明日のことで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とあります。思い悩むのではなく、神に委ねよというのです。「パンも金も持つな、下着も二枚着てはならない」ということを言い換えれば、神に全てを委ねなさいとなります。わたしたちの人生には、自分ではどうすることもできないことが沢山あります。それを思い悩むのではなく、神にゆだねて生きるというのです。
十二人が持っていたのは杖一本と履き物です。「杖と履き物を持つ」は何を意図しているのでしょうか。履き物も杖も歩くことに必要です。歩くこと、前進することに関係しています。お金もパンも、人から頂いたものを入れる袋も,わたしたちから見れば無くてはならないもの、生きていくために最も大事なものに見えます。しかし、主イエスから遣わされている者には無くてはならないものではないというのです。むしろ、持たなければ身軽に前進することができるというのです。受け入れられた時には、何の気兼ねもなく、主イエスのためにとどまっていなさい。逆に、受け入れられない時には証しとして足の裏の塵を払い落として立ち去ればよいと言うのです。主イエスは何も気後れや気兼ねなく,自由に軽やかに、思い煩うことなく毅然として生きる道を与えて下さいます。パンも、お金も,袋も持たず、ただ、履き物と杖を持って遣わされていく。これは主イエスを信頼し、委ねることを勧める言葉です。主イエスの言葉を信頼して行くならば、軽やかに、毅然として生きることができるというのです。そして、主イエスを信じ受け入れ、軽やかに、自由に生き歩むことがどんなに幸いなことであるかを示してくださいます。