与えられたテキストは「七つのパンと魚で四千人が給食される」という物語です。すでに読んだ6章30-44節の「五つのパンと二匹の魚で五千人が給食された」物語を想起します。主イエスが二度も同じ様な奇跡を行ったということは、そこにイエスの熱い思いがあったというしるしではないでしょうか。マルコ福音書も繰り返しを恐れず二度同じ様な奇跡物語を記していることは、イエスが福音を伝えるとき、この物語がどうしても必要であると考えていたということではないでしょうか。イエスの福音を伝える重要な物語です。
この物語は草原で五千人が食事をする物語ですが、福音書の中にはイエスが食事をする物語は幾つか記されています。ファリサイ派の人々に攻撃を受けながら、収税人や罪人招いて行った食事があります。復活後、弟子たちの前に現れ、食事を共にしました。食事を共にすることは喜びの時であり、交わりを深める恵みのしるしであります。
聖餐式の制定の言葉に「主イエスが渡される夜、パンを取り,感謝の祈りをささげて、それをさき・・・・」とあります。この言葉をもって聖餐が始まります。この言葉はマルコ福音書8章6節の「七つのパンを取り,感謝の祈りを唱えてこれをさき、・・・」と言う言葉の引用です。聖餐式の度に、このパンの奇跡が想起された証拠であると思います。主イエスは七つのパンと魚で四千人もの人々に食事を与え、空腹を満たしてくださったと想起し感謝をささげました。今、主イエスは見えないけれど、霊において、ここにおられ、この食事に招きパンをさいて、感謝の祈りをささげて,分け与えてくださっている。現にここに主イエスが存在し働いてくださっていると信じ、感謝したのです。
聖餐は主イエスの存在と御業を想い起こす食事であると言われます。主イエスは見えませんが、信じることはできます。しかし、主イエスが見えませんから信じることは難しいです。最初の弟子たちも、主イエスは共にいてくださるのですが、その真実を信じることができませんでした。マルコ福音書8章17節に「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」とあります。主イエスがこれほど厳しく弟子たちを責めるのも珍しいことです。「わたしが二度もパンの奇跡を起こしたのに、あなたがたは何を経験したのか。何を見たのか。何を聞いたのか」と問うているのです。わたしたちもある意味では同じです。見るべきことを見ず、聞くべきことを聞けず、悟るべきことを悟り得ない者です。
2節に「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると,途中で疲れてしまうだろう」とあります。「群衆がかわいそうだ」は「憐れむ」という意味です。文語訳は「我、この群衆を憐れむ」と訳されています。この「憐れむ」は6章34節では「深く憐れむ」と訳されています。お腹を痛める程の共感を意味します。主イエスは群衆の苦しみを心が痛むほど共鳴、共感してくださったのです。ヨハネ福音書11章38節に「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」とあります。意訳すると、「イエスは激しく心を動かし、興奮して、涙を流された」と訳されます。「イエスは涙を流される程までにわたしたちに共感、共鳴してくださるのです。イエスは心を痛め、心に憤りを覚える程、他人のことを思って下さっているのに、弟子たちはそれが分からない、信じられないというのです。
12節「イエスは心の中で深く嘆いて言われた」とあります。主イエスは群衆が三日間も食べ物がなく、空腹のまま帰らせることを気の毒に思い、弟子たちに「何とかならないか」と尋ねられます。弟子たちは「こんなに大勢の人に与えるパンはないし、パンを買うお金もない。あったとしても、こんなに人里離れたところではパンを手に入れることはできません」と答えています。弟子たちはイエスの言われることは無茶なことですと拒絶しています。しかし、主イエスは弟子たちの言われることで納得しません。「何かを持っていないか」と尋ねます。弟子たちは「パンが七つあります」と言っています。「七つのパン、これが何になりますか」と心の中で思っていました。弟子たちの言われることは間違っていません。七つのパンでなにができるというのでしょうか。弟子たちはどうにもならないと思っていました。
しかし、イエスは弟子たちの姿を深く嘆かれました。弟子たちはイエスが五千人を五つのパンと二匹の魚で養われたことを、つまり、イエスの深い憐れみを忘れているのです。自分たちの貧しさと回りの状況だけに目を注いでいます。自分たちの力だけを頼り、諦め、絶望しているのです。主イエスはそのような弟子たちを深く憐れんでいます。
主イエスは七つのパンを持って感謝の祈りをささげられ、それを弟子たちに「配らせた」のです。何の役にも立てないと打ちひしがれ絶望している弟子たちを勇気づけているのです。七つのパンを裂き祝福し、一人一人にパンを配らせたというのです。打ちひしがれている弟子たちを用いて、神の国の伝道を行ったのです。心優しい主イエスはいつも貧しく小さなわたしたちを用いようとしてくださっています。
この先の14章で、イエスがエルサレムの入城するとき、ロバを用いようとします。弟子たちが、ロバの持ち主に、「どうしてロバを引いていくのか」と問われたら、「主がお入り用です」と答えなさいと命じています。主イエスは貧しく,小さい者を用いようとしています。その真実を信じて,イエスの後について行きたいと思います。