2022年8月7日 「イエスの変貌」マルコ福音書9章2-13節

与えられたテキストはマルコ福音書9章2-13節です。2節に「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」とあります。山の上ではイエスの姿が変わり、光と輝きに覆われ不思議な出来事が起こりました。しかも、そこに旧約聖書のモーセとエリヤが現れ、イエスと話し合っていたというのです。それは一瞬の出来事でしたが、イエスが神の子・救い主であることが明らかに示したのです。それを目撃したペトロは感動のあまり、小屋を建て、この素晴らしい時を残して置きたいと申し出ました。しかし、その光景はすぐに雲にかき消されて見えなくなりました。その時「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声がしたというのです。「これに聞け」は、言い換えれば、イエスの言葉に聞き従え、そうすれば確実な救いが与えられるという神の救いの宣告です。
イエスはこの不思議な出来事の後、三人の弟子たちと共に山を下っていきました。イエスは高い山の上にとどまり、栄光に包まれたままでいることはできませんでした。悪霊に取りつかれた息子をもつ父親が象徴する苦難と試練に満ちた世界へ下って、行かなければなりませんでした。つまり、イエスはわたしたちを苦しめる問題を避けないで、わたしたちの苦難のただ中に入って来てくださり、わたしたちの苦難と重荷を負ってくださるのです。
「キリストの変貌」を描いたラフェロの絵画があります。上半分は光り輝くキリストが、下半分には、対照的に暗い苦難に満ちた世界が描かれています。ラフェロは二つの現実を同時に見なければならないというのです。目に見える現実がどのようであっても、その現実だけを見るのではなく、栄光に包まれ「これに聞け」と言われるイエスのもう一つの現実を同時に見なければならないというのです。
イエスが麓に下ってみると、他の弟子たちが群衆に取り囲まれ、激しく攻撃されていました。悪霊に取り憑かれた息子をもった父親が、息子を連れて来て悪霊を追い出して欲しいと弟子たちに願いました。しかし、弟子たちは悪霊を追放することができませんでした。群衆は弟子たちの無力に失望し、ここから出て行って欲しいとイエスに言いつけているのです。すると、イエスは「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆かれたといいます。光り輝いている山の上の世界と対照的な暗い麓の場面です。
ラフェロは絵画の下半分に弟子たちや群衆や父親がイエスに背を向けている姿を描いています。彼らはイエスに向き合い、イエスを見ていない、イエスの言葉を聞いていないのです。イエスに目を注ぐことはできないのです。それがラフェロの描く下半分の麓の世界です。この「信仰」はギリシャ語ピスティスと言って、「信頼」を意味します。「信頼がない」、言い換えれば、「希望のない、絶望している、空しい思いをしている」となります。つまり、イエスは今の時代は未来に希望のない、絶望している時代だというのです。
22節に「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」とあります。父親は悪霊に取り憑かれた息子をもつ親の苦しみをイエスに訴えています。それに対して、イエスは「不信仰だ」と言っています。しかし、同時に深く同情しています。父親のこれまでの苦しい過去を思えば、神と人を信頼できないのは当然だと思います。子どものためにあらゆる手立てを尽くしました。しかし、何をしても癒やされず、絶望させられました。引きつけを起こす息子を抱きかかえ神に祈り続けましたが、その祈りもきかれませんでした。もう祈ることさえもできなくなりました。
23節に「イエスは言われた。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」とあります。イエスは父親の思いを充分知り尽くし、信仰のない者に寄り添いました。普通なら「信じます。熱心に信じていますから、お助けください」と訴えると思います。しかし、父親は「信仰のないわたしをお助けください」と言っています。信じていると言いながら、信じられない。それが真実のわたしですと言うのです。父親は在りのままの自分、矛盾している自分をイエスの前にさらけ出しています。イエスの前だからと言って、自分をよく見せようとするところはありません。これが信仰的と言うことではないでしょうか。イエスはわたしたちの在りのままを受け入れて下さるのです。
ガラテヤの信徒への手紙1章10節で「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」とあります。パウロは人の目を恐れ、人の歓心を買おうとして生きてきた。しかし、キリストに出会い、信仰が与えられ、信じ受け容れる時、古い自分から解放され、新しくされ、自由に生きる者にされました。在りのままの自分を受け入れ、在りのままに生きる。その時に、主イエスに全てを委ねる信仰が生まれる。そして、そこから希望や期待が生まれるというのです。To do ,to have、何かをする、何かをした、何かを得たのではない。働きや功績ではなく、ありのままの自分が受け入れられている、自分も受け入れていく、全て委ねていく信仰に生きていきたいと思います。