2022年8月14日 「イエスの言葉に聴き従う」マルコ福音書9章30-37節

テキストはマルコ福音書9章30節―37節です。その始まりは8章31節の「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することのなっている、と弟子たちに教え始められた」と考えられます。イエスは必ず多くの苦しみを受け、苦難を受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺され、三日後に復活することになっている、と弟子たちに教えました。32節に「しかも、そのことをはっきりと話になった。」とあります。しかし、弟子たちはイエスの言葉を理解することができませんでした。ペトロは「そのようなことを言ったら皆が離れて行きます」とイエスをいさめています。するとイエスは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを叱責しています。そして、「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と命じました。しかし、ペトロはイエスの言葉を理解することができませんでした。そこで、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを高い山に連れて行き、一瞬の間ですが、栄光の姿を見せ、十字架に付けられることが、敗北ではないことを教えられました。それでもペトロと弟子たちはイエスを理解することはできませんでした。
そこで、もう一度「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と教えられました。弟子たちはこの言葉の意味も分からなかったが、怖くて尋ねられなかったといいます。弟子たちは人生の師であるイエスが十字架に付けられることは、受け入れることはできませんでした。イエスが十字架に付けられるというのですから、怖くて、尋ねられなかったのです。この「怖い」は「疑う、恐れる」という意味があります。原語は「同時に二つの方向に歩く」という意味です。つまり、人が統一していないで、分裂している状態を意味します。人は本来統一した存在であるのに、分裂している。そのために正しい決断ができないことを意味します。弟子たちは、イエスの言葉に従うか、この世に従うか、あれかこれかの決断の前に立たされましたが、イエスに従う道を選択することができなかったのです。イエスは「三日後に復活する」と言って、弟子たちの人生は十字架の苦難と死で終わるのではなく、十字架に勝利すると言うのですが、弟子たちはそのイエスの言葉を信じることがでなかったのです。
33節に「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった」とあります。一行がカファルナウムに来て、ある家に着いたとき、イエスは弟子たちに尋ねました。弟子たちは黙っていました。彼らは途中で「だれが一番偉いか」と議論していたからです。弟子たちは山の上で聞いた「これはわたしの愛する子、これに聞け」という言葉が本質的なことと思えなかったのです。イエスが「引き渡される」と言われたが、その意味も深く考えることはできなかったのです。弟子たちにとって、誰がいちばん偉いか、偉くなるかが最も重要な感心事でありました。
35節に「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」とあります。この「座る」は「居ずまい質して座る」という意味で、これから大切なことを話そうとされることを意味します。そこで、イエスは「いちばん先になりたい者は、すべて人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。この「仕える者」はギリシャ語でドゥロス・僕、奴隷という意味です。「僕・仕える者になりなさい」と言われるのです。10章45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあります。この言葉も弟子たちに受け入れられませんでしたが、本質があり、真理があります。イエスは仕えられることに喜びがあるのではなく、仕えることに喜びがあるというのです。ペトロは「そのようなことを言ったらついてくる人は誰もいません。人から捨てられてしまいます」と反発しています。しかし、ペトロはイエスの十字架と復活に出会った後、イエスの教えが真理であり、真実であることに目覚めさせられました。
ペトロの手紙Ⅰ2章18節に「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛に耐えるなら、それは御心に適うことなのです。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことなのです。あなたがたが召されたのはこのためです」とあります。人に仕えられるのではなく人に仕えていく、不当な苦しみを受けても、人に仕えていくことが神の御心に適うことである。また、そのために神によって召されたのであるというのです。「これに聞け」と言われるように、仕える生き方に命があるというのです。
徳廣睦子さんには「兄の左手」という著書があります。彼女の兄は上林暁という作家です。上林さんは47歳の時脳溢血で倒れ、身体全体が不自由になり、かすかに左手の機能が残り、その左手を使い作家活動を続けました。妻は心を病み、先立たれ、作家活動は難しく、生きていくことさえ厳しい中で作品を書き上げていきました。
それは上林の妹の徳廣睦子さんの献身的な支えがあったからです。上林は後遺症で奇声のような言葉を発し、それを聞き分け、みみずの這うような文字を読み、清書して作品にする。上林が亡くなるまで18年間仕えました。徳廣さんは結婚もされず、自分がしたいこともせず、上林のために、彼のために仕えてきました。徳廣さんのその人生は神の御旨にかなった人生であり、人に仕えることの喜びと勝利の人生であったとも言えます。「兄の左手」の最後のページに「苦しみと悲しみの十字架こそ、われわれの誇りうるものである。」という祈りの言葉が記されています。神は「これは、わたしの愛する子、これに聞け」と言われます。主イエスの言葉に聞き従い、勝利を信じ歩み続けていきたいものです。