2022年8月28日 「尊い代価によって」マルコ福音書10章35-45節 

今日のテキストはイエス・キリストが世に来られた目的と使命について明確にしている珍しいテキストです。昔から神学の間では、イエスはどのような自己意識をもっていたかが問題になっていました。8章27節以下では、ペトロが「あなたは生ける神の子キリストです」と告白すると、イエスは直ぐに「誰にも言ってはならない」とペトロを叱責する場面があります。なぜイエスはペテロを叱責されたのでしょうか。イエスには元々自分はキリスト・メシアであるという意識がなかったのではないかと言われます。そういう状況の中で自分が世に来られた目的と使命を明らかにしているのが今日のテキストであるというのです。
45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあります。この「人の子」は「人間一般」ではなく、「イエス」を意味します。「仕える」はギリシャ語で「ディアコネー」と言い、「人のために働く、仕える」という意味です。言い換えれば、「他者のための存在である」というのです。
ボンヘッフアーは「他者のための存在」についてたびたび述べています。彼はドイツ告白教会の牧師でしたが、反ヒトラー運動に加わり、1944年逮捕され獄中に閉じ込められ、1945年4月9日ゲシュタポによって絞首刑で処刑されました。その獄中から友人に送って手紙の中に「他者のための存在」について書かれています。「イエスは徹頭徹尾他者のための存在でありつづけた。教会も他者のための存在である時に教会である。ナチスが権力を振るっていた時代、教会は自分たちの教会を護るためにナチスに妥協し続けていました。その結果、ナチスの暴虐と暴力を許してしまった」と述べています。彼は、その事実を痛切に感じながら、教会が自己保全によって生きるのではなく、他者のための存在として生きなければならない。他者のための存在としての教会の規範となったのがイエス・キリストである。イエスの生涯は自分を守ることを放棄して、他者のために存在し続けた生涯であるといいます。
ボンヘッフアーはイエス・キリストに救いと希望を見出しているのです。自分の生きる道を見つけたというのです。「仕えられるためではなく仕えるために来た。また、多くの人の身代金として自らを献げるために来た」という言葉に服従する信仰によって、精神的苦難と危機を乗り越えることができたというのです。勿論、イエスは自分を愛するように、隣人を愛せよと言い、自分を愛することを否定することはありません。しかし、ボンヘッファーの「他者のための存在」に真理があるというのです。
脚本家の早坂暁さんは、自分の欲望と戦う時代が来ていると述べていました。自分の欲望や自己中心主義と戦い、如何にそれらを克服していく。それがこれからの時代の課題であるというのです。
イエスはわたしたちが存在するのは自分のためにではなく、他者のための存在、他者に生命を与え、他者を生かすための存在であるというのです。人間はそのように創造されていると言うのです。写真家白川議員さんは「わたしたちは今、沙漠の中に置かれているようなものである。生命の潤いを感じることができない」と言っていました。生きる喜び、生き甲斐を持つことができず悩み苦しんでいる。居ても、居なくてもいい。否、わたしなんか居ない方が良い。そのような思いになっているのが現代社会であるというのです。ボンヘッファーは「わたしたちに生き甲斐や存在の意味を与えるのは、神とキリストのために、他者のために、生きているという信仰である。神はこの貧しい者を他者のために用いてくださるという信仰こそ本質である」と言っています。
45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」とあります。イエスがこの世に遣わされた使命を告白しています。ヨハネ福音書13章12-15節でイエスは「最後の晩餐」というシンボリックな動作によって「仕える」という生き方を教えています。イエスは手ぬぐいを腰に巻き、腰をかがめ弟子たちの足を次々に洗っていきました。そして、イエスは「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがしたとおりあなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言いました。イエスが弟子たちに求めているのは仕える生き方です。その仕える生き方こそ、イエスの求める信仰です。
フィリピの信徒への手紙2章6節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。イエスはご自分を徹底的に低く、自分を無にされたと言います。「身代金」と訳されているギリシャ語は「リュトロン」と言い、「捕らわれている人が解放されるために支払われるお金」のことです。奴隷が身代金を払って解放され、自由な身になることを意味します。イエスはわたしたちを罪、過ち、失敗、過失から解放し、自由にするために、身代金として自分の命を献げてくださったのです。イエスはわたしたちが苦難と艱難から解き放たれるために自らを献げてくださったというのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と自らの使命を告白し、その言葉に従って十字架の道を歩まれました。わたしたちもイエスの信仰を信じ受け容れていきたいと思います。