32節に「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭を立って進んでいかれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」とあります。これまでのイエスは、弟子たちと人々と一緒に、ゆっくりとした足取りで歩んでいました。しかし、この時から、イエスは弟子たちや皆の先頭に立って、エルサレムへ向かって歩み始めたというのです。弟子たちはそのイエスの姿を見て驚き、従う者たちは恐れたと言います。この「驚いた」は「喜んだ」、「恐れた」は「驚いた」という意味です。弟子たちは、いよいよ「時が来た」と思ったのです。彼らは、長くローマ帝国の圧政のために苦しんでいました。その理不尽な苦難の中から、新しい救い主の出現を熱狂的に待ち望む信仰が生まれ、救い主はイエスに違いないと信じていました。イエスが彼らの待望する救い主ではないと言っても、イエスに期待し、イエスを真に理解することができませんでした。
35節に「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いがすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』。すると、イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。』。彼らが、『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたは杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ』」とあります。この「杯」はギリシャ語で「ポテリオン」と言い、ゲッセマネの丘の祈りに出てきますように、「十字架の苦難」を意味します。「バプテスマ」は「水の中に身体を沈める」という意味で、「死」を意味します。イエスが「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしの受けるバプテスマを受ける」と言っているように、弟子たちは苦難と死とを受ける覚悟がありました。しかし、弟子たちとイエスの間には大きなギャップがありました。弟子たちは自分が偉くなり、自分の栄光と名誉のために苦難と死を負い、自分の名誉や栄誉を受けるためには苦難を厭わないというのです。
宗教学者の山折哲雄さんは「日本人は何事でも、すぐに人と比べて、優劣を競う、そのために本来の自分を発見することができないのではないか。彼らの人生観は明治時代以来の立身出世である。立身出世のためなら、どんなに苦しいことでも頑張る、厭わない精神がある。同じ様に、ヤコブとヨハネが『杯を飲みます。バプテスマを引き受けます。』と言ったのは、自分の名誉や出世、自己本位のためである」というのです。イエスの考えと弟子たちの考えに大きな隔たりがあります。イエスの杯を飲む、バプテスマを受けるは、自分の救い、自己本位のためでなはなく、徹底的に神の栄誉と名誉のためです。
イエスはゲッセマネの丘の祈りで「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈っています。イエスは自分の栄誉ではなく、神の栄誉と名誉のために苦難と死を引き受けたのです。しかし、弟子たちはイエスの思いを理解することができませんでした、他の10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネがイエスのところに行ったことを知ると腹を立てたと言います。彼らは自己本位にしか生きられない罪の存在であることを示しています。
42節に「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい。』」とあります。この「偉い」は「メガス」で「立派な、重要な」という意味です。「いちばん上になりたい」の「いちばん」は「第一人者、立派な」という意味です。イエスの言う「立派な人、第一人者」は「全ての人に仕える人」のことです。
孔子は「君子、用いられざるを恥とせず」と言います。「君子」とは「立派な人」という意味です。「立派な人」は、自分が用いられないことで、自分は駄目だと思わない人のことです。重んじられなくても、少しも恥ずかしいとは思わない。本当に立派な人間は、人から大事にされても、されなくても、自分がすべきことはちゃんとしていく人、用いられなくても、用いられなくても、誠実に生きていく人のことです。イエスは人生の真理を言っているのではないでしょうか。
45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあります。「仕える」は「デアコネオー」と言い、「愛する」という意味です。「仕える」は「克己して」と読まれ、道徳的な教えと理解されがちです。しかし、イエスの教えは道徳的な教えではなく、人間が人間に成っていく根源、人間の生きる力と愛の教えです。
ボンヘッフアーは、「わたしたち人間は、誰か一人でも良いのです、その人のために生きているという実感をもつことができた時、生きる喜びをもつことができる。反対に、どんなに衣食住に恵まれていても、だれひとり愛する人がいないなら、孤独と空虚に陥る」と言っています。「愛する」ことは、喜んで生きていくための原点です。「自分が役立っている、役立っていない」、「用いられている、用いられていない」、「能力がある、能力がない」ではなく、「愛する」が活き活き生きる原点です。イエスは人間として、究極的、本質的に生きる道と生き方を示しているのではないでしょうか。