2022年10月2日 「イエスに招かれる」エレミヤ1:4-10 マルコ1:14-20 

知人がくも膜下出血で倒れ、救命救急センターに運ばれ、奇跡的に一命を取り留めました。しかし、大きな障碍を負いました。「全く動けなくなり、寝っきり同然です。回りの人たちに迷惑をかけるようになりましたが、謙虚になって、率直に人の世話を受けることを感謝しています。老いの重荷は神さまからの賜物と受け入れています。信仰の賜物だと思えるようになりました。神様は、わたしに祈るという一番良い仕事を遺してくださったと感謝しています。また、苦難に打ち勝つ信仰と希望が教会の交わりから与えられました。教会は自由で伸び伸びと明るい雰囲気で、在りのままの自分でいることができます」という手紙を頂きました。彼女が自由で、明るくて伸び伸びした、粘り強い信仰を与える教会、ありのままの自分でいられる教会、そういう教会を形成したいと言っていますが、その通りだと思います。しかし、現実は、律法主義、教条主義、権威主義の教会が多いと思います。

臨床心理士の斉藤登志子さんは「教会には多くの『ネバナラナイ』という不文律が存在して、自由な福音的な信仰を失わせている。例えば、礼拝に出席しなければならない、奉仕をしなければならない、許さなければならないなどです。勿論、『ネバナラナイ』が大事なことであることは否定しません。しかし、『ネバナライ』が行動の原則になると、義務感が中心になり、律法主義になり、魂と精神に悪い影響を与える」と述べています。

柏木哲夫さんは「教会は、『ネバナラナイ』ではなく、『シタイ』が行動の原則になる必要がある」と言っています。パウロはキリストの愛に促されて、そうせずにはいられないが行動の原則であると言います。「礼拝に出席しなければならないから出席するのではなく、出席したい、出席しないではいられないから出席する」、「奉仕をしなければいらない」から「奉仕する」、「聖書を読まずにいられないから、読む」、「祈らなければいられないから、祈る」。「ネバナラナイ」ではなく、「シタイ」が行動の原則になる。その行動原則が教会の中心になるというのです。

エレミヤ書1章4節に「わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』。しかし、主はわたしに言われた。『若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしの命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われる。」とあります。エレミヤが預言者に召された時の記事です。この「語れ」はヘブル語で「カーラー」といいますが、様々な解釈が可能です。例えば、協会訳は、「語らなければならない、義務」と理解しています。共同訳は「語れ」命令形で、従うか、従わないかの自由を認めています。また、「語るようになる、語るようにする」という訳も可能です。「神が、語るようにする」というのです。

「わが主なる神」は「ヤハウェの神で、人を創造し、成長させ、エレミヤを預言者にする、ならせる神」です。「語らなければならない・ネバナライ」では、エレミヤは語ること、預言者になることはできなかったのではないかと思います。「あなたを万国の預言者にする、語れるようにする」という神の約束があって、エレミヤにも「なる」という強い思いがあって、預言者になることができたのではないかと思います。

イエスは「わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしよう」とペトロを招きました。「わたしについて来なければならない」ではありません。「わたし(I will)があなたを漁師にしよう、漁師にする」です。「わたしが」というイエスの思いがあるのです。また、ペトロにも「ついて行きたいwant」という思いがあるからついて行ったのです。それが肝心です。パウロはフィリピの信徒への手紙2章13節で「神はあなたがたの内に働きかけ、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせる」と言っています。「願い・セオー」は、「喜んですること、自ら進んですること」を意味します。「起こす」は「造る、創造する」です。神はわたしたちの内に喜んですること、自ら進んですることを創造し、完成に至らせるというのです。

ペトロはアンデレと夜通し、網を打ち、魚をとっていました。しかし、何も獲れませんでした。働いても、働いても、何も成果が得られない。打ちひしがれて、ガリラヤ湖の浜辺に座り込んでいました。その時、イエスが近づいてきました。そして、「もう一度、舟を出して漁をして御覧なさい」と言われました。ペトロは「先生、無駄です。これまでの経験や知識から見て、やっても駄目です。今日は駄目です。魚はいません」と答えました。「しかし、お言葉ですから、降ろしてみましょう」と言って、網を降ろしました。すると網を上げることができないほど、おびただしい魚が獲れました。ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んだというのです。「漁をしてみなさい、降ろしてみましょう」。どこにも「ネバナラナイ、義務」はありません。「しかし、お言葉ですから」と言って従っています。イエスの言葉は、彼らの心のうちに働きかけて「やってみよう、やってみたい、シタイ・want 」を起こすのです。

羽仁もと子は「人間の中の生き方には二種類あって、一つは『やってみよう』、もう一つは『どうせ駄目だ』という生き方です。『やってみよう』は神さまに造られた本性です。どうせ駄目は、神さまに逆らう罪と言えます」と述べています。神は本当に自分のしたいことをすることを喜ばれ、ネバナラナイ・義務感や気兼ねからすることは喜ばれません。「シタイ」という思いから起こる行為は、ネバナラナイ・義務感からする行為より強く、長続きがすると思います。

或る知人は身体が不自由になって、礼拝に出たくて、出たくて待ちきれないようになったそうです。聖書を読むのも、ネバナラナイのではなく、喜んで読むようになった。祈りも喜んで祈れるようになったと言います。不自由になって、これまでに増して力が与えられ、恵みを受けている。そういう新しい生き方が与えられるのがイエスの招きです。