エゼキエルはBC598年第一回捕囚のとき、ヨヤキン王と共にバビロンへ連行されました。捕囚の5年目に、ケバル川のほとりで不思議な神の幻をみて預言者として召命を受けました。その7年後、ゼデキヤ王はエゼキエルの警告を無視し、神への信頼を裏切り、エジプトに援助を求めました。バビロンのネブカドネッアルはエルサレムに侵略し、一年半包囲後、エルサレムは陥落し、滅亡しました。400年続いたダビデ王国は終熄しました。
エゼキエルは、なぜそのような不幸なことが起こったのか、その理由を述べています。4節に「お前たちは弱い者を強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われるものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食になり、ちりぢりになった。わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ、主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食になろうとしていたのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」とあります。王、祭司、指導者たちが神の言葉を聞かず、悪行を重ねたので、神はバビロニアを用いて裁きを下したというのです。
エゼキエルは、BC536年2回目のバビロン捕囚が起こり、エルサレムが完全に破壊されると、神の許しとエルサレム復興の預言をします。33章11節に「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って、生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよかろうか」とあります。そして、34章23節に「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」とあります。「わが僕ダビデ」と言いますが、ダビデは既に五百年前に登場していますから、ダビデのことではなく、メシア・救い主の出現預言です。エゼキエルはメシア預言、主イエス・キリストの出現を預言しているのです。
ヨハネ福音書10章11節に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とあります。「良い羊飼い」の「良い」は「カロス」と言い、「美しい、魅力ある、高潔な、慰めに満ちた」という意味です。ちなみに、もう一つの「良い」は「アガロス」と言い、「有用な、役に立つ、道徳的、知的に優れている」という意味です。この「良い」は「カロス」ですから、「わたしは魅力的な羊飼い、心の美しい羊飼い、人を真理に導く羊飼いである」となります。言い換えると、「わたしは羊のために命を捨てる羊飼いである」となります。エゼキエルの言う「群れを養わないで、私腹を肥やす、弱い者を強めず、病める者を癒さず、失われたものを探し求めず、力ずくで群れを支配する」羊飼いではありません。イエスが、マルコ福音書10章42節で「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。偉くなりたい人は、皆仕える者になり、いちばん上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の贖いとして自分の命を献げるために来たのである」と言われるように、羊のために命を献げる羊飼いです。
ヨハネ福音書時代の教会に大きな影響を与えたのがクムラン教団です。クムラン教団の救い主は「義の教師」と言います。義の教師は祭司たちや長老たちによって苦難を負わされ殺されます。クムラン教団の信仰は「苦難を負い、殺されていった義の教師」を主と仰ぐ信仰でした。ヨハネ福音書は主イエスはクムラン教団の義の教師とは違うメシアであることを明確にしています。
18節に「だれでもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることができる」とあります。主イエスは何よりも主体性を重んじました。10節に「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とあります。主イエスは殺されたのではない、主体的に意味を見つけ、命を献げたのです。羊が命を得、豊かに生きるために、羊が苦難に打ち勝つために、自ら命を献げたというのです。良い羊飼いは人々に感動を与え、寄り添い、喜んで主に従おうとする心の美しい、慰めに満ちた羊飼いであるというのです。
14節に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」とあります。「知る」は「ギノスコー」で、ただ名前を知る、顔を知っているというような形式、外面的に知ることではなく、人の存在全体を知ることを意味します。羊飼は昼間羊を牧草のある所に導き、夕方になると羊を連れて、囲いに帰って来ます。囲いには他の羊飼の羊も一緒に入っています。朝になると、その囲いから、自分の羊の名前を呼んで連れ出します。羊はそれぞれ個性、性格を持っています。羊飼いは一匹一匹の羊の性格を知り、見分けることができるのです。
栢木哲夫さんは、「ホスピスに来られる方の苦しみは、病気の苦しみに増して、長年の苦しめや痛みや辛さが、誰にも理解されないという苦しみである。ホスピスでは、医師や看護師が親身になって耳を傾け、コミュニケーションをとり、患者に寄り添い、苦しみを必死に理解しようとします。その姿勢が患者の気持ち、辛さが分かってもらえたという思いになり、苦しみが癒され、心に平安が与えられる」と述べています。「自分の気持ちが分かってもらえた」、言葉を変えれば「承認、肯定」です。その肯定・承認が究極的な希望となり、救いになるといいます。主イエスは、その究極的な承認、肯定を与えようとされています。主イエスはひとりで、十字架につけられ、死に至りました。重い、大きな苦難を経験されました。それはわたしたちを知るためです。わたしたちの悩み、苦しみを十分に理解し、苦しみを共に担うためです。主イエスは優しい思いをもってわたしたちに寄り添ってくださいま