2022年10月30日 「神の愛」創世記9:8-17 エゼキエル18:30-32

与えられた御言葉は創世記9章8節以下のノアの物語です。6章1節からノア物語は始まります。幾つかの資料が混じり合っていますので、物語を複雑にしていますが、大筋は神の裁きと救いです。神が地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、人を創造したことを後悔し、豪雨を降らせ、洪水を起こし、地上から全てをぬぐい去ろうとしました。40日間の豪雨がやみ、水が引き、鳩を放すと、帰って来ませんでした。ノアとその家族と全ての生き物は救われ箱舟から出てきたというのです。

9節に「わたしは、あなたたちと、そして、後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちとともにいる鳥や家畜やすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」とあります。「契約を立てる」の「立てる」は「確立する、確認する、維持する、決心する」という意味です。現在形に翻訳されていますが、ヘブル語では過去完了形です。契約がずっと継続していることを意味します。「二度と」は「決してしない」という意味で、どのようなことがあっても、決して滅ぼすことはないという神の強い決心と御心が表されています。

13節に「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」、16節には「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」とあります。「虹」は「ケセト」と言いまして、「弓矢」を意味します。「弓矢を置いた」は和解と平和とが生まれたという意味です。虹は神の国とこの世を結ぶ架け橋、隣り人とを結び合わせる架け橋を意味し、神はその架け橋を創造したというのです。また、「虹」は、動詞になると「腰を屈める、お辞儀をする」という意味です。人間がお辞儀をするのではなく、神が腰を屈めて、お辞儀をするというのです。「わたしと大地の間に立てた契約のしるし」の「契約」は「ベリート」と言って「神の側から一方的に保証する約束」を意味します。つまり、神がこの世界を最後まで保持するという約束です。神は人間を二度と裁かないと決心されました。その決心は人類が罪を悔い改めて、正しい人間になったから、その誉として裁きを止めたのではありません。「人が心に思うことは、幼い時から、死ぬまで悪い」と言っていますに、人は依然として罪と悪を重ねています。簡単に、悔い改めるができる存在ではなく、罪と悪を犯し続けます。しかし、神は、人間がどうしようもない程の罪深い存在であることを承知の上で、「もう、大地を呪って生き物を全滅させるようなことは決してしない」と約束されたというのです。

イザヤ書54章7節に「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと、あのとき誓い、今またわたしは誓う。再びあなたを怒り、責めることはない、と。山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」とあります。この「深い憐れみ」と「とこしえの慈しみ」は、「神のアガペーの愛、無償の愛」を意味します。パウロ的に言えば、神の一方的な恵み、憐れみの救いです。神は人間の罪深さを十分に承知していながら、裁きを下すことはないというのです。イザヤはノアの身に起こったことを証し、神の赦しのメッセージを伝えています。

エゼキエル書18章31節に、「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ」とあります。この「だれの死をも」の「誰」は、直訳的には「死ぬ者」と言う意味です。カトリック教会訳では「いずれは死ぬもの」と訳されています。「いずれは死ぬ、死んで朽ち果てていく宿命を負った人間」を意味します。神はその人間の死を喜ばない。どんなことをしてでも、生きよ、したたかに生きよ、と言われます。浅野順一は「自分がどんなに駄目だと思っても、神は駄目だと思っていない。人から駄目だ、駄目だと言われても、神はよしと肯定している」と言っています。

詩人の伊藤比呂美の大好きな言葉は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の言葉です。伊藤比呂美には、ヒロコという娘がおられ、ヒロコを題材にして「ヒロコ殺し」という恐ろしい詩があります。出版されると、父親から「比呂美、お母さんが悲しむから、こういうことを書くんじゃない」と。母親から「こういうことを書くと、お父さんが泣くから、やめて」と、叱られたそうです。彼女は両親を悲しませるような作品ばかりを書いています。離婚と結婚、離婚を繰り返し、今はアメリカで生活されています。「年老いた両親を残してアメリカくんだりまで来ちゃった。いやなことも悪いことも山のように積み重ねてきた。わたしこそ救いから一番遠い人間だ」と自嘲的に言っています。しかし、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉に至りました。どうしようもない罪人こそ救われるという教えであるというのです。神は決して滅ぼさないと契約を立てられました。神は「何人の死をも喜ばない、翻って生きよ、生きよ。」と肯定しています。わたしたちは神の肯定があるから、生きることができるのだと思います。どうしようもない程、汚れきった存在ですが、失望落胆しないで、希望をもって生きることができるのだと思います。神は赦しと愛の神です。神の愛はわたしたちの罪を贖い。希望を与えてくださいます。