2022年11月13日 「キリストのために」使徒言行録15:1-2 22-29

与えられたテキストは使徒言行録15章15:1-2 22-29節です。エルサレム教会のペトロとヤコブと異邦人教会のパウロとバルナバが、使徒会議を開いたところです。そこで審議されたことは、ユダヤ人以外の人がキリスト教信者になるとき、割礼を受けなければならないか、受けなくてもいいのかという問題です。割礼はユダヤ人のアイデンティティで、存在の根拠、誇り、存在価値です。ペトロたちユダヤ人キリスト教信者は、アブラハム時代からの慣習に従い、生まれて8日目に受けています。

ダニエル時代のシリアのアンテオコス・エピフャネスはギリシャ化政策の一つとして、ユダヤ人の割礼を禁止しました。そのためにマカバイ戦争(紀元前167年)が起きました。割礼はユダヤ人にとって戦争になるほど重要な事柄でした。しかし、ユダヤ人以外のキリスト教信者にとってはそれほどの意味がありませんでした。異邦人伝道を主の御旨としたパウロやバルナバは、キリスト教信仰者は割礼を受けなくても良いという考えでした。しかし、問題が信仰と伝統の問題ですから簡単にはいきません。割礼は、ユダヤ人律法主義者が異邦人キリスト教信者のスティファノを殉教させたように自己を絶対化させます。しかし、ペトロたちは違いました。相手の主張を聞き、神の御旨を尋ねました。立場の違う相手の言葉を静かに受けとめ、熟慮と祈りの中から真理を見出しました。

使徒言行録15章7節に「議論を重ねた後、ペトロは立って彼らに言った。『兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。』」とあります。ペトロは割礼を受けなければ、救われないと言いません。福音の言葉を聞いて信じ受け入れる。それが信仰であり、彼らの心は信仰によって清められたというのです。人の心や罪は割礼では癒やされません。福音の言葉を信じることによって救われる。それが真理であるというのです。つまり、ユダヤ人以外の異邦人がキリスト教信者になるとき、割礼を強制しないことに決定したのです。

ペトロが割礼を受けなくてもよいと決断することは、大変なことでした。ユダヤ人として、長年割礼を信じ、行ってきました。割礼が無効だと言っても、直ぐに認めることはできませんでした。しかし、パウロやバルナバたちとの議論の中で、割礼は魂の救いとは関係がないことを認めるに至ったのです。そのためには、ペトロ自身が大きく、正に生まれ変わるように変えられなければなりませんでした。

福音はマケドニア、ギリシャ、ヨーロッパに広がっていきました。福音の前進のためには、ペトロの変革、教会の変革が無ければなりませんでした。変革なければ福音の前進はありませんでした。もちろん、変えてはならないこと、変わらなければならないこと、変えられないことがあります。それらを識別させたのが信仰です。ペトロはキリストの信仰によって、救いのために無くてならないものと、そうでないものとを識別することができたのです。作家の高史明の妻の岡百合子さんは、12歳の息子を自死で失いました。彼女は息子を自死させた自責と絶望に苦しんでいました。その時、ある方から慰めの手紙を頂きました。その手紙に「神よ、変わることの出来ないものを受け入れ変えられないことがあります。ある冷静さと、変えるべきものについて、それを受け入れる勇気と、この両者を識別することのできる知恵とを与えてください」というラインホルト・ニーバーの言葉が記されていました。この言葉は深い淵に落ちて苦しんでいた岡さんの命綱になりました。岡さんも「神よ。変えることのできないものを受け入れる冷静さと変えることのできるものを変えていく勇気、その両者を識別できる信仰を与えてください。」と祈りました。今日のペトロもその信仰を証ししているのではないでしょうか。

教会を今にも分裂させそうな割礼の問題を決済したのは「ヤコブ」です。この「ヤコブ」は、使徒ヤコブですから、すでにヘロデ王によって殺害されていました(12:2)。従ってイエスの弟のヤコブです。イエスがナザレから家出するようにエサレムにやって来て、神殿で教えていたとき、ヤコブはイエスを連れ戻しに来ています。イエスを信じることができませんでした。そのヤコブが、今は、重要な教義を決める使徒会議の議長になって、割礼を受けなくても、救われるという裁決をしているのです。ヤコブの人生を見ると、神の業の不思議さを認識します。神はわたしたちが全く予期できないことを起こされ、わたしたちを導かれます。わたしたちは全てを神に委ねていきたいと思います。

パウロは救われるにはイエスを救い主と信じるだけで、割礼は必要がないと言います。そのためにユダヤ人から迫害を受けました。しかし、ひるむこともなく、割礼の無効、信仰による救いを主張し続けました。ところが、パウロはテモテに割礼を施しています。テモテはギリシャ人の父、ユダヤ人キリスト教信者の母の間に生まれました。パウロは伝道旅行にテモテを連れて行くために、ユダヤ人の手前、割礼を施した、と言っています(使徒16:3)。この事実はパウロの信仰の自由、寛容、柔軟を表しています。パウロは自己を絶対化しません。謙虚で自由です。

26節に「このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。」とあります。パウロは「キリストのために」という一点では少しも揺らぐことはありません。フィリピの信徒への手紙1章20節に「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とあります。パウロは常に「キリストのために」が、一つの規範でした。永遠に変わらない一線です。教会も同じです。教会は「キリストのために」以外は、大胆に変革していく共同体です。神は必ず新しい道が開き、与えてくださいます。