与えられたテキストは創世記49章29-33節で、ヤコブの生涯の最期の物語です。ヤコブは波乱の生涯を歩みました。その生涯の終わりが来て、自分の子どもたちを集めて、一人ひとりを祝福して、静かに息を引き取っていきました。ヤコブの最期は誰もが願う、感動的な最期でした。
33節に「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」とあります。この「先祖の列に加えられた」の「加える」は「アサフ」と言い、旧約聖書では3回しか使われていません。一つは25章8節の「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」にあります。もう一つは35章29節の「イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」にあります。この「先祖の列に加えられた」は「祝福を受けた」という意味で、「満ち足りて死に」の後に置かれています。
アブラハムとイサクが祝福の列に加えられることは分かりますが、ヤコブが加えられるのには違和感があります。アブラハムは「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」という神の言葉に従って、それまでのハラン生活を断ち切って、新しい世界に出立しました。パウロの「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」とアブラハムの信仰を讃えているように、アブラハムが祝福の列に加えられるのは当然です。
しかし、ヤコブはどうでしょうか。ヤコブは、アブラハムやイサクと比べると、非常に罪深い人間です。彼はイサクとリベカの間に、エソウと双子で誕生しました。生まれる時に、兄エソウの足のかかとを掴んで生まれた。つまり、エソウと争いながら、生まれてきたと物語っています。ヤコブは弟として生まれてきたことを恨みました。野心家で、狡猾で、性格の悪い青年に育ちました。その時代の習慣ですが、長男がすべての財産と権利を相続しましたが、ヤコブは兄エソウの相続を、策略を使って奪い取りました。ヤコブは、父イサクが年老いて、身体と目が不自由になって寝ているところに、兄エソウに変装し、声まで似せ、父イサクに近づき、祝福を求め、祝福を奪い取ってしまいました。悪行を重ねたヤコブです。
裏切られたエソウは激しく怒り、ヤコブを殺そうとしました。ヤコブは父イサクの家にいることができず、伯父ラバンを頼ってハランに逃れていきます。そこで、ラバンの娘ラケルとレアと結婚します。レアとの間に六人の子、レアの召使いジルバの間に二人の子、ラケルの間にヨセフとベニヤミン、ラケルの召使いの間に二人の子、十二人の子どもが与えられました。ヤコブは、十二人の子どもの中でヨセフだけを溺愛し、兄弟間の紛争の種を作ります。父親としても欠けていました。ヤコブは欠け弱さ、破れを一杯持っていました。父イサクや兄たちを裏切り、伯父と確執を持つ、妻二人を持ち、罪と過失のヤコブでした。
ところが、その罪深いヤコブが「神の民に加えられた」と言うのです。その事実がテキストのメッセージです。神の恵みは人間の如何に関わりなく、否それを上回るものであるというのです。つまり、神の恵みと愛の絶対性です。使徒言行録24章15節に「正しい者にも正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いていています」とあります。パウロは神の恵みと愛の絶対性をフェリクス総督の前で証言しています。ファリサイ人と律法学者のユダヤ人はパウロの言葉に激しく怒りました。正しくない者が救われるはずがないと言うのです。しかし、パウロは救いは人間の能力や功績に関係なく、ただ神の一方的な恵みによって与えられるというのです。
ルカ福音書13章10-17節には、イエスが18年間も病気の霊につかれ、腰が曲がったままで、伸ばすことの全く出来ほどひどい病気で苦しんでいた女の人と出会い、彼女の病気を癒します。それを見た会堂司は激怒します。会堂司は、イエスが病気の女の人を癒すことは認められないのです。悪霊に取り憑かれ、身体が二つ折れに曲がっている。それだけで、何の価値もない存在だと切り捨てるのです。しかし、イエスは歪んだ価値観と戦われました。彼女を「アブラハムの娘」と呼んでいるのは、彼女の存在そのものに目を注いでいる事実を示しています。彼女が持っている能力、才能、知識、学歴、功績に関係なく、彼女の存在自体を受け入れ、肯定しているのです。
ルカ福音書13章12節に「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って」とあります。その「見て」は、「単なる見るではなく、より以上を見る、上を見る、真実を見る、愛を持って見る」という意味です。イエスは、二つ折れになった女の人の姿を見るのではなく、彼女の存在を見ているのです。そして、そのイエスの愛の眼差しが、彼女を生まれ変わらせ、神を賛美する者に変えられたのです。
哲学者の森有正の父親は森明です。祖父は森有礼です。森有礼は伊勢神宮に不敬を冒したと誤解され右翼に暗殺されました。そのとき、明は14歳で、学習院の中等科2年生でした。明は心を病み、落ち込み、劣等感に苦しみ、退学し自宅に引き籠もってしまいました。その時、文部大臣だった森有礼が心を込めて、お世話をしたフランク・ミュラーという英国人の英語教師を引き籠もっている明のいる自宅に迎え入れました。明はミュラーの感化を受けて、洗礼を受けました。ミュラーは、その人の才能とか力に関係なく、在りのままを受け入れました。人が後で得たものは何ら関係なく、この世的なものから解放され自由になると信じていました。人を罪から解放する信仰が不登校で、絶望している明を救うのでした。明は牧師になり、中渋谷教会を設立し、共助会を創設し、学生伝道に尽くされました。コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節に「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。キリストに結ばれれば、誰でも新しく造り変えられます。誰でもキリストに繋がれば、生まれ変わるように新しくされます。その言葉を信じて受け入れていきたいと思います。