2022年12月11日 「来るべき方はキリスト」マタイ福音書11;2-19

バプテスマのヨハネの物語です。獄に捕らえられているバプテスマのヨハネに、イエスの活動の様子が伝わってきました。ヨハネはイエスのところに、自分の弟子を遣わし「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねました。原文は「あなたでしょうか」という疑問文ではなく、肯定文です。マタイ福音書16章16節の「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの告白、マルコ福音書1章11節の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と同じ構成で、「来るべき方はあなたです」と肯定、告白文です。直訳すると、「あなたこそ、わたしたちが、他の者を待ち望む以上に待ち望んでいる『来るべき方』です」となります。バプテスマのヨハネは捕らえられ獄に入れられても、イエスに対する信頼、期待を失っていません。キリストの先駆者、証し人として毅然と存在しています。

イエスとバプテスマのヨハネの関係ですが、ルカ福音書を見ますと、二人の関係は、それぞれの母親に遡ります。マリアは結婚していないのに、イエスを身籠もり、世間の冷たい視線、批判を浴びています。マリアは恐れと不安を持って、親類のエリサベトを訪ねます。その時、エリサベトも妊娠中でした。彼女は、マリアの挨拶を聞いたときに、胎内の子どもがおどったと言います。エリサベトは「主の母上がわたしのところに来てくださるとは、なんと光栄でしょう。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんと幸いでしよう」と、マリアを慰めています。そのエリサベトが胎内いる子がヨハネです。つまり、イエスとヨハネは親類です。二人は子どもの時から深いつながりがありました。

二人は同じ年に生まれましたが、成人して別々の道を歩みます。ヨハネはエッセネ派に入り、荒れ野で修行し、民衆に悔い改めを勧め、悔い改めのしるしとして、ヨルダン川で洗礼を授ける活動を始めました。彼に共鳴した沢山の人々が洗礼を受けました。イエスもヨハネから洗礼を受けました。その時、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところにきたのですか」と言っています。それに対して、イエスは「今はそうさせてもらいたい。なすべきことは、すべてしなければならないのです」と言い、ヨハネから洗礼を受けられました。

その後、ヨハネの身に大変なことが起こります。ユダヤ王ヘロデ・アンテパスが権力の拡大を謀り、義兄弟のフィリポの妻ヘロデアを奪い取ります。神の義を求め正義感の強いヨハネは、ヘロデ王の行動を見逃すことが出来ませんでした。激しく抗議しました。そのために捕らえられ、マクルスの牢獄に閉じ込められました。マクルスは死海の東側の海面から1千2百メートルの山頂にあり、周りは深い谷に囲まれ、人を寄せつかない牢獄でした。その薄暗い穴蔵の牢獄に閉じ込められました。年およそ三十歳です。獄舎から死海とその彼方に広がるユダの町々を見下ろすことが出来ました。それだけにヨハネは孤独と絶望に苦しめられました。

ヨハネは罪を告白し、義を求めて生きる道を求めました。しかし、祈りの甲斐もなく、ヘロデ王に処刑されました。多くの人々にはヨハネの一生は無意味な、敗北の生涯のように見え、ヨハネの信仰と正義は世の不義に敗北したように見えました。しかし、イエスは不運なヨハネに光を当てています。11節に「はっきり言っておく。『およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。』」とあります。イエスはヨハネの存在を神の証し人と讃えています。ヨハネは矛盾と不条理の現実に、絶望しないで諦めないで、投げやりにならないで、イエスを指し示す生涯を送りました。そこにヨハネの存在の意味がある。アドベントに生きる者の生き方が示されていると思います。

佐伯祐三という画家に「郵便配達夫」という絵画があります。彼は30歳の時、フランスで亡くなりますが、結核が悪化し、外に出掛ける力もなくなり、会う人と言えば、郵便配達に来た配達人です。孤独と死を描いています。結核と精神を病み、夭折された天才画家です。学生時代に結婚した妻と8歳になる子どもがいました。その子は2年後になくなります。勿論、佐伯祐三がそのことを知ることはありません。しかし、この「郵便配達夫」から、慰められ、生きる力が伝わってきます。生きる望みを奪われてしまうような境遇に置かれても、佐伯祐三の絵から「慰められる、生きよ」という言葉を聞くことができます。

カラバッジョは「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」「洗礼者聖ヨハネの斬首」という絵画を描いています。ヨハネが兵士たちに押さえられて、首を切られていく場面とサロメがヨハネの首をお盆に載せている場面です。そこにある現実はどうしようもない、無残な、絶望しかない現実、矛盾と不条理の現実です。しかし、カラバッジョの絵画はそれを超えた光を指し示しているように見えます。イエスが「体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。魂も体も滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言う事実を指し示しているように、世の矛盾を超えた光を指し示しています。

5節に「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』」とあります。「幸い」は、「良かった。おめでとう」という意味です。「おめでとう。わたしにつまずかなくて良かった。」です。もう少し別の言葉で言えば、「イエスのみを信頼していく、イエスのみに繋がって、委ねていく。」ということです。

ヨハネは、イエスがガリラヤで活動を始めたとき、その姿を見て、自分の弟子、「見よ、神の小羊だ」と、イエスを指し示しました(ペトロの兄弟アンデレともう一人の弟子と一緒に歩いている)。それを聞いた二人の弟子は、イエスに従って行ったと言います。バプテスマのヨハネは、「彼は必ず栄え、わたしは衰える、生きよ」とイエスを指し示しています。イエスに繋がり続けました。

イエスに繋がった歩みしていこうと深く心に決める。それがアドベントの意味ではないかと思います。