2022年12月18日 「降誕の告知」イザヤ書7:1-14

 与えられたテキストはイザヤ書7章1ー14節です。イザヤ時代のイスラエルは南北に分裂していました。北方にはアッシリアという大国があり、北のエフライムに侵略し、更に南方のスリアとパレスチナに侵略を始めました。エフライムはアッシリアに対抗し、シリアと軍事同盟を結びました。更に、南方のユダ王国に同盟に加わるようにと、戦車と騎馬をもって迫ってきました。2節に「アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」とあります。南ユダは小国ですから、アハズ王も民も滅ぼされることを恐れ、動揺しました。その時、イザヤは神からアハズ王に会うことを命じられました。

4節に「彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」とあります。神は、イザヤに息子ヤシュブ(帰って来る)を連れて、アハズ王と会い、スリヤの王もエフライムの王も、人間であって、神ではない、恐れることはないと告げなさいと命じました。この「落ち着いて」は「守る」、「恐れる」は「心を弱くする、薄くする」という意味です。心を薄くすると、周囲の勢いに躍らされて動揺する。それでは国は守れない。神はスリヤの王もエフライムの王も、燃え残ってくすぶっている切り株に過ぎない、心弱くしてはならないというのです。

しかし、アハズ王は神の言葉を信じることが出来ませんでした。二人の王が攻め上ってきて、南ユダを倒し、他の王を即位させようとしていると思い込んでいました。信じるものがない者の悲劇で、被害者意識と猜疑心に囚われていました。

5節に「アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。エフライムの頭はサマリア、サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」とあります。神は、スリアとエフライムの企ては、成就しないと断言します。神の言葉を信じなければ、平安はないというのです。

歴代誌下20章20節に「『ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる』」とあります。「信頼する」は「信じる」という意味です。「固く信頼する」は受身形になると、「固く支えられる」となります。つまり、神を信じ信頼するならば、神に固く支えられるとなります。「確かにされる」は「救われる」という意味です。言い換えれば、自分の力ではなく、神によって確かにされるというのです。しかし、アハズ王は信じることができないで、混乱し、慌ててアッシリアに援助を求めました。イザヤはアッシリアに援助を求めれば、南ユダは滅ぼされると警告しました。

10節に「主は更にアハズに向かって言われました。『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方(ほう)に、あるいは高く天の方(ほう)に。』」とあります。「深い陰府の方」、「高く天の方」は、目に見える身近な事柄ではなく、人間を超越した神ヤッハウェのことを意味します。つまり、神に問い、神に聴き、神に祈れということです。アハズ王は戦車や騎兵の多いアッシリアを信頼しました。つまり、身近な目に見える現実しか見ていないのです。それでは本質を失う。神の目から見なければならないというのです。

作家の池澤夏樹さんは「僕たちが聖書について知りたかったこと」という著書の中で、「星の王子」の一文、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは、目には見えないんだよ」という言葉を引用して、聖書は心の目で見なくては、肝心なことは見えないという真理を伝えていると思う。人は目に見えない世界を心の中に持たなければならない。そうしなければ、豊かに生きることができないと言っています。イザヤ的に言えば、深く陰府の方に、高く天の方に、主なる神に求め、神に問い、神に聴かなければというのです。パウロの言う「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」という生き方です。

14節に「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」とあります。「しるし」は「サイン、合図」という意味です。「神が共にいる」という事実のしるしです。「しるしを与える」とは、神は何度も言っても信じない、頑ななアハズ王に、世継ぎのヒゼキヤを与えることを言っているのではないかと思います。神の約束は幻や幻想ではありません。事実で、具体的で、確実です。マリアのイエス受胎と誕生によって、神が必ず共にいてくださるという事実が具現化したというのです。

石橋秀明さんは「孤独の群衆」という文章の中で、「現代は孤立した社会、孤独と空虚の時代である。多くの人が誰にも気づかれず、誰にも知られずに、死んでいく。旧約聖書には様々な孤立した人生、人間模様が記されているが、こんなに深刻な孤立社会は記されていない。現代の様々な孤立の根に、日本人がもっとも美徳としてきた、他人に迷惑をかけたくない。他人に迷惑をかけてはいけない社会規範があるのではないか。交わらぬまま凍りつく群衆、孤立社会だからこそ、神が共いてくださるという信仰を伝えなければと思う」と述べています。主イエスは「あなたを捨てて、孤児とはしない。たとえ父母が捨てても、わたしはあなたを捨てることはない」と約束しています。「神はあなたと共にいる」という降誕前主日のメッセージを信じ受け入れ、伝えていきたいと思います。