与えられたテキストはイザヤ書7章1-11節です。大国アッシリアは国内のゴタゴタのため、南方に手を伸ばすことが出来ませんでした。北イスラエル、アラム、ダマスコ、サマリヤの国々は連合し、アッシリアに抵抗しようと企てました。しかし、南ユダはアッシリアを恐れて同盟に加わろうとしません。そこでスリアとエフライムがエルサレムに侵攻し、ユダの王のアハズ王に軍事同盟に加わるように脅迫しました。
3節、「あなたの息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池から水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」とあります。イザヤは子を連れて貯水池に来て、王に会い、主に命じられたとおり、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と伝えました。「静かにしていなさい」は、元の意味は「体を水の中に沈める」という意味です。この言葉は、赤ちゃんがお母さんの胎内の羊水の中にいる状態を意味し、人間の安らかさの原型だと言います。試練や困難な問題に出会うと、神の中に身を沈めると静まることができるというのです。言い換えれば、神はどのようなことが起こっても、寄り添い支えてくださるという信頼を持つことです。それが信仰です。私たちには予想もできない困難なことが起こり、矛盾した不条理なことが身に降りかかってきます。しかし、神の中に身を置けば平安を得るというのです。
4節に「アラムを率いるレツィインとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない」とあります。「心を弱くする」の「弱い」は、「薄い、臆病」という意味です。「薄い存在では駄目である」というのです。イエスは「良い地に蒔かれた種」のたとえ話で、「薄い地に蒔かれた種は、そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」と教えています。イザヤも薄いと、周囲の勢いに負けて、右に左に動揺し、衰退する。動揺しないためには、薄っぺらでは駄目で、厚みがなくてはならないと言っています。
9節に「信じなければ、あなたがたは確かにされない」とあります。「信じる」と「確かにされる」の二つの言葉は、ヘブル語では同じ言葉です。「確かにされる」は、「立つ」という意味もあります。厳密には受動態で、「立たされる」という意味です。つまり、信じることがなければ、立つことができないのです。言葉を代えて言えば、わたしたちは信じることがあって、存在していることができる。つまり、存在の基礎は信仰だというのです。
10節「主は更にアハズに向かって言われた。『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。』」とあります。「しるし」とは神の救いのことです。つまり、神の救いを深い陰府に、高い天に求めよというのです。どういうことを言っているのでしょうか。言い換えれば、わたしたちが困難な問題に直面した時、その解決の道を手近なところに求めては駄目だというのです。ペトロの手紙Ⅰ4章12節に「愛する人たち、あなたがたを試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」とあります。困難な問題は私たちの身近にあり、毎日の生活の中で遭遇しなければなりません。しかし、問題の解決は陰府の深いところ、高い天に求めなければならないと言うのです。
北からエフライムとスリアが侵攻し、エルサレムを包囲し、アハズ王は危機に陥り、アッシリアに助けを求めようとしました。しかし、イザヤは一時しのぎの安易で粗忽な手段は真の救いにならないと神の言葉を告げました。
アウグスチヌスは、青年時代いろいろのところに救いを求めて精神的にさまよいました。そして、遂に神に帰りました。「わたしの魂は神において憩うまで、とこしえの平安を得ることはできなかった」と述べています。アウグスチヌスはわたしたちの問題は、ヨブが直接的に神と対決したように、究極的には神の元に持っていかなければ、真の解決はないというのです。
イザヤ書30章15節に。「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。しかし、お前たちはそれを望まなかった』」とあります。アッシリア軍がエルサレムを取り囲み、エルサレムの城壁が陥落し、王を始め、市民は恐怖と狼狽で大混乱した時の預言者イザヤの言葉です。7章4節に「彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」とあります。536年シリアとアラムに包囲された時のイザヤの言葉と同じ言葉です。「立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。イザヤの心の中心にあった信仰は一貫しています。しかし、アハズ王はイザヤの言葉を受け入れませんでしたが、次のヒゼキヤ王は、イザヤの言葉に従って、神の中に身を沈め、静かにし、自分を動揺させるものを一切断ち切って、神に全幅の信頼を置きました。神はヒゼキヤ王の信頼を受け容れ、イスラエルは滅亡を免れました。神を信頼して行く時、必ず神はその信頼にお答えくださいます。ヒゼキヤ王のように神の約束の中に自分を沈める者でありたいと思います。