イザヤ書40章の背景は、紀元前6世紀ユダ国に起きた歴史的事件です。BC598年バビロンの王ネブカドネツァルがユダに侵攻し、第一次の捕囚、そして、587年第二次の捕囚が起こり、イスラエルの民は60年間苦しい捕囚生活を送りました。538年パレスチナの支配者がバビロンからペルシャに変わると、イスラエルの民は解放され、祖国に帰ることが許されました。その激しく変動する時代の中でイザヤ書40章は記されています。
イスラエルは神の民として特別に選ばれ、愛されていると信じていました。神の民イスラエルが敵国バビロンに滅ぼされ、捕ら移され、苦しい試練に遭遇することを信じることができせんでした。しかし、現実は不条理にもバビロンで60年間の捕囚生活を送らなければなりませんでした。一口に60年と言いますけれども、実際は気の遠くなるような時間でした。彼らの神に対する信仰は弱まり、バビロン文化に同化し、刹那的になり、虚無的な生活に落ち込んでいきました。
写真家の白川義員(よしかず)さんは、写真集「旧約聖書の世界」の中で、「聖書の世界は、その中に命の泉を持っているが、現実に目にする世界は、乾ききった不毛の砂漠の世界である。枯れ果てた砂漠は、地理的なことだけでなく、バビロンに捕らえられていた人々の心と精神である」と述べています。バビロンの町では、ベルやボネと言った偶像の神々が力を持ち、盛大に祭られていました。その現実に圧倒されたバビロンや捕囚の人々は、ベルやボネの神々に従っていました。捕囚の人々はその現実を間の当たりにし、自分たちの信じてきた神には、もはや力がないのではないかと疑いを持ち、信じても、仕方がないと諦め、人生を投げ出したのです。まさに彼らの心は乾き切った砂漠のようでした。イザヤが預言者として召命をうけたのは、そのような時代でありました。
6節に「呼びかけよ、という声は言う。わたしは言う。何を呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい」とあります。イザヤは神から、「捕囚の民に語りかけよ」と命じられました。その時、イザヤは「自分は何を語ってよいか分からない」と応えました。イザヤは語る言葉がない、言葉を失っていたというのです。シモーヌ・ヴェイユという哲学者は、「人間は不幸や苦難が長く続くと、言葉を失うことがある」と言います。イザヤも、長く続く捕囚と苦難の中で語るべき言葉を失ってしまったのです。
40章6節に「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。詩篇90篇には「われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、骨折りと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」とあります。「肉なる者」とは、勿論人間のことです。人間アダムは土(アダーマー)の塵から造られたものです。土から生まれ、土に帰る。はかない、弱い存在だというのです。わたしたちの人生は、どんなに栄えても、どんなに盛んであっても、70年か80年で、終りで、留まることができません。神の言葉から人生を見ますと、皆等しく「草だ」、と言うのです。今、イスラエルに臨むバビロンがどんなに権勢と威力とを誇っても、それは一時、しばしの時に過ぎないというのです。しかし、神の言葉はそうではありません。全てが枯れ果ててしまったかのように見える捕囚の中で、神の言葉は尚堅く、とこしえに立っているというのです。神の言葉は失望落胆するイザヤに希望を与え、イザヤを立たせ、深い慰めの言葉を語らせるのでした。
ハンセン病の歌人玉木愛子さんに「わがいのち、わがうた」という詩集があります。玉木さんは幼い時にハンセン病に感染し、81歳で亡くなるまで、回春病院や長島愛生園で暮らしました。その間に病気は進行し、両手と両足を失い、さらに50歳の時に失明しました。その後、口述筆記で本格的に句作を始め、多くの句を残しました。その晩年の句の中で、神の言葉だけが支えであったと言っています。「聖書あり浮世の花は見えずとも」「一冊の聖書がいのち冬ごもり」。この世の楽しみを見ることはできないが、わたしには一冊の聖書がある、その聖書の言葉がわたしの命であり、わたしの生きる力の源である。全てを失ったかに見える中に、なお彼女をとこしえに立たせるものがある、というのです。預言者イザヤが捕囚のイスラエルの民に伝えようとしたこともこの真実です。
8節に「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」とあります。イザヤは「何を語ればよいのか」と当惑し歎きましたが、神は神の言葉は枯れ果てた砂漠を生きる者の最終的な支えである、と言いなさいと言う。今西錦司さんは、文明社会は今に必ず滅びる。こういう時代に宗教は役に立たない、無意味だと言っています。逆に下村寅太郎さんは、こういう時代だからこそ宗教が本当にものを言わなければならないと言います。下村さんは仏教に近い方ですが、期待できるのはキリスト教だ、と言います。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」というイザヤの言葉を、そのまま信じて、毎日毎日の生活を送っていくことが本質である。見えている現実が全てではなく、見えない神の現実を見据えていく。わたしたちが繋がっている神の言葉は普遍的で、永遠である。その見えない神を信じて生きていくというのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ6章18節に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とあります。目に見えない永遠に存続するものに目を注ぎ、神の言葉につながって生きていきましょう。