与えられたテキストはイザヤ書49章1-6節です。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」という作品があります。黒澤明の「赤ひげ」という映画もあり、倉本聡のテレビ・ドラマもありました。その主人公は安本登という青年医師で、江戸から長崎に留学して医学を学び、帰ってきて、赤ひげ・新出去定の小石川養生所で、良い医者になると高い理想と志を持って働いています。
ある日、貧乏長屋に住む親子七人が鼠要らずを飲んで心中する事件が起こりました。父親が病弱なために働くことができず、一家は貧乏のどん底に落ち込み。先行きを悲観して、夫婦は5人の子どもを道ずれに心中をします。五人の子どもたちは死にますが、夫婦は安本の手当てで助かります。その時、母親が自分たち夫婦を助けてくれた安本に、「生きていても仕方がない。生きているということは、ただ苦労だけで、何もいいことはない。どうかお慈悲だから死なして欲しい。あなたはわたしたちが生きて苦労をするのを見ておられるのに、何故私たちが死ぬのを放っておかないのか」と、人生と医者に対する恨み言をこぼします。医師安本は、彼の誇り高い志は打ち砕かれ、自分の無力さに打ちのめされるのでした。赤ひげは矛盾と絶望を回避しないで、責任と任務を全うしていかなければならないというのです。周五郎は、聖書をよく読んでいる人で、神はあらゆる苦難と不条理の中で、常に「汝生きよ」と命じておられるというのです。
4節に「わたしは思った。わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした。」とあります。イザヤの深い絶望感と空虚感を表現しています。イスラエルの民はバビロンに捕られ移されて70年捕囚生活を送っています。彼らがバビロンに来て、バビロンのきらびやかな文明を見て、大変驚いたと思います。自分たちの神よりもバビロンの神の方が優れているのではないかと自信を失いました。神を信じていたイスラエルの民が敵地に捕らえられて70年、不自由な生活を強いられました。その中でイスラエルの民は主なる神への信仰を失い、バビロン帝国の文明に溺れて、神の民としての実質を失い、すっかりニヒリズムになってしまいました。「神はいない。いるのだったら、どうしてわれわれはいつまでもこんな目にあうのだ。『解放する、助ける』と言っても、70年にもなっているのに、何も変わっていないではないか。神なんてあてになるものか」と自嘲的になり、精神的に退廃していきました。その厳しい状況の中で預言者イザヤは神の言葉を語り、神の救いと約束を預言するのでした。
イザヤ40章27節に「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主にかくされている、と。わたしの裁きは神に忘れられたと。」とあります。捕囚の民は「神は隠れてしまったとか。祈りは退けられてしまった」と言うけれども、決っしてそんなことはないとイザヤは言います。しかし、イザヤも人の子ですから、自分の言葉を聞いてくれる者はいない。誰からも無視され、厳しく批判され、嘲笑を浴びせられると、自分の働きは何であったのか、徒労ではなかったか、疑い始め、空しい思いに襲われるのでした。
4、5節に「わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。」とあります。イザヤは深い絶望感と空虚に打ちのめされているのでした。「しかし、わたしを裁いて下さるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御許とに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために、母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた主は、こう言われる。わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。」とあります。イザヤは虚無と絶望を突き抜ける神の力を証ししています。
イザヤは一生懸命に主に仕えてきました。しかし、その労は報われない、その結果が見えてこない。そのために落胆し空しい思いにさせられました。しかし、一切を主に委ねようとされているのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節に「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とあります。「裁きは、神に任せよう」と言うのです。パウロもイザヤの信仰を証ししています。
5節「母の胎にあったわたしを、ご自分の僕として形づくられた主は、こう言われる。わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りものを連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」とあります。神は絶望し打ち萎れている捕囚の民を立ち上がらせる使命と力をイザヤに与えるというのでした。
1節に「島々よ、わたしに聞け、遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた」とあります。イザヤの常に立ち返る原点でした。どんな空しさの中でも、自分は母の胎の中で、主から名を呼ばれた存在であると信じられる時、その試練を乗り越える力が与えられるというのです。
山本周五郎は「赤ひげ診療譚」の中で、主人公の新出去定が「徒労に賭ける」という言葉をしばしば言っています。赤ひげは医者として貧しい人達のために懸命に働いている。しかし、時代の流れの中で見れば、赤ひげの働きは、海水の一滴にもならない。赤ひげの働きが何になるのか、無駄ではないかと嘆かざるを得ない。しかし、周五郎は、それを承知の上で医療を行っていく、徒労に賭けることが人生であるというのです。マタイ福音書6章19節に「あなたがたは地上に富みを積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に宝を積みなさい。」とあります。この地上を歩むとき、さまざまな試練に出会い心を痛めますが、天に宝を積むことを目指して歩みたいと思います。