この物語はイエスがガリラヤからティルス地方に行ったことから始まっています。ティルスという地名は口語訳ではツロです。ガリヤラから北西50km地中海沿岸にある港町です。フェニキヤの諸都市のひとつでありますから、異邦人の地でユダヤ人が滅多に足を踏み入れないところです。そこに一人のフェニキヤ生まれのギリシャ人の女性がいました。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持った母親です。「汚れた霊にとりつかれた」と言いますから、娘は何か恐ろしい病気に罹っていたと思われます。母親はどうすることもできず、苦しみを訴える娘をただじっと見つめ祈っているだけでした。
母親は、ガリラヤで病気に苦しむ者を救っているイエスことを知り、娘を病気から解放してくれるのはイエスしかいないと思いました。イエスがティルスに来られたと聞き、直ぐに飛んでいき、イエスの足もとにひれ伏し、娘から悪霊を追いだして下さいと願いました。するとイエスは「まず子どもたちに充分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と答えました。「子ども」とはイスラエルの人々のことです。つまり、自分は、まず何よりもイスラエルの人々の救いのために来た。そのために全力をあげなければならないというのです。「小犬」とはティルスや、イスラエル以外の人々のことです。「あなたの苦しい事情は分かりますが、あなたに関わることはできない。あなたの願いを聞くことはできない」というのです。誰も、疑問を持ちました。イエスが救い主であるならば、どの人でも平等に愛するはずです。イスラエル人は愛するが、異邦人は愛することは出来ないと言うのは、これまでイエスが教えてきたことと矛盾します。もし、わたしたちがこの場面に出会ったら、イエスに躓いたと思います。腹を立て、立ち去ったかも知れません。確かにイエスの言葉は誤解されやすです。それだからでしょうか、この物語はルカ福音書には伝承されていません。恐らく、この言葉から誤解や曲解が生まれてくるのを恐れたからだと思います。
しかし、この母親はイエスに腹を立てることはありませんでした。それどころか、イエスの言葉を聞きながら、豊かな想像力を働かせました。この地方ではどこの家でも犬を飼っていました。犬は食事になると、食卓の下にやって来て、残り物をねだります。母親はこの光景を思い浮かべ、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます。可愛がっている小犬ならば、あっちに行きなさいとは言わないでしょう」と言いました。他のことはなにも言いません。イエスは「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と答えています。イエスはこの母親に説得されているのです。
わたしたちは、これまで、イエスが病人に言葉をかけ、その言葉によって病気が癒される物語を読んできました。たとえば、会堂司のヤイロの娘が病気のとき、イエスが「タリタ・クミ、娘よ、起きなさい」と呼びかけると、娘は癒されました。しかし、この物語では、イエスが言葉をかけることはしていません。イエスの言葉ではなく、母親の言葉によって癒しが起こっています。つまり、母親の言葉に「力」があるというのです。勿論、イエスの言葉には絶対的な力があります。しかし、母親の言葉にも「力」があるというのです。人間の言葉にも、人の心を癒す力があるというのがこの物語のテーマです。
河野進の詩に「ふとした一言が、大きな喜びに。ふとした一言が、深い悲しみに。ふとした一言が、天使のなぐさめに。ふとした一言が、希望の太陽に。一言の重さを覚えさせてください」という詩があります。わたしたちの言葉に力があるというのです。
霜山徳爾は、「時宜に適った人の言葉は、人を救い、人を変えることが出来る」と言います。その事実を今日の物語は伝えているのではないでしょうか。
アルフォン・デーケンは「この母親はユーモアに満ちた信仰の持ち主である」と言っています。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑をいただきます」。この言葉はユーモアに満ちた言葉であり、イエスと母親の間にある緊張をすっと緩めました。主イエスが変えられました。驚くことに、神の子イエスが変えられたのです。それが母親のユーモアです。デーケンは「なぜ、母親はユーモアに満ちた態度を取れたか。それはこの母親が自由であったからである」と言います。母親は思い詰めることはありませんでした。切羽詰まった中で余裕があります。悩みや苦しみの最中にあっても、それに拘束されず、相手のために優しさを発揮することであると言います。ユーモアは自分の弱さや欠点を素直に認め、笑い飛ばせることであるとも言います。
この母親はギリシャ生まれの異邦人でした。ユダヤ人から差別を受け軽蔑されていました。更に、悪霊に取りつかれた娘をもっていました。それらは母親にとって弱さであり、痛みでありました。しかし、その弱さや痛みを率直に認め、笑える。それを広い視野をもって、新しく捉え直すことができたというのです。
フィリピの信徒への手紙4章11節に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊に暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」とあります。パウロの信仰的本質を表しています。言葉を変えれば、パウロのユーモア、自由、余裕です。神から賜った信仰です。イエス・キリストは、その豊かな自由な信仰を与えてくださいます。