与えられたテキストは福音の具体的な内容を伝えています。34節に「イエスは、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは『開け』という意味である」とあります。イエスのもたらす福音は「エッファタ・開け」です。この人は耳が聞こえず、話すこともできない言葉を失った苦難を負っています。その彼に向かって「エッファタ・開け」と言われました。これが主イエスの福音、喜びの知らせです。彼は聞くことができず、話すこともできない大事なコミニィケーションの手段を失いっていました。それは彼にとって大変な苦難であり試練であったことは言うまでもありません。
32節に「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるように願った」とあります。イエスの時代の聾唖者は大変厳しい状況の元に置かれていました。彼らは回りから遮断され閉ざされた世界に生きなければなりませんでした。遮断され閉ざされた世界、孤立した世界に生きることが、どんなに苦しく辛いことであるかは言うまでもありません。人間として生きられない世界を意味しました。
創世記2章18節に「人はひとりであるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とあります。「助ける者」は単に助けたり、助け合ったりする存在ではなく、もっと深い意味で、「向き合う存在」という意味です。人間は向き合う存在がなければ人間になり得ない。そのように人間は定められていると言っています。ティリッヒは「彼に合う助ける者」を「彼に応える者」と訳しています。人間は応えてくれる存在を必要としているというのです。わたしという存在に心を傾け、関わる存在がなければ、人間は人間になり得ない、生きられないというのです。
臨床心理士である山田和夫先生は、「考えられない悲惨な事件が起きている。家庭や家族の間でトラブルが生じ、それも悲惨な出来事が起こっている。最近の青少年を見ていると、本当に応えてくれる存在がいないからではないだろうか。父なき時代、母なき時代と言われますが、幼い時から本当に応えてくれる存在がないままに、成長してきたのではないだろうか。人間は、『あなた』と呼びかけ、向き合っている(助けて)存在を必要とする、そういう存在がなければ人間として存在できないのではないだろうか」と述べています。
ここに登場する彼にも応えてくれる存在がありませんでした。彼は閉ざされた孤立の世界に置かれていました。しかし、今、彼に応える、向き合う存在として主イエスが彼に向き合い、立たれているのです。主イエスが「エッファタ・開け」と言われると、彼の耳はたちまち開け、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったというのです。彼は主イエスと出会うことによって、閉じ込められていた世界から解放され、交わりの中に生きるように変えられたのです。主イエスは、彼の舌のもつれを解き、話せることができる前に、まず、最初にされたことは彼の耳を開くことでした。この癒しの順序が大事だと思います。何よりもまず最初に行ったことは、耳を開いて神の言葉に耳を傾け、神の言葉を聞くことでした。ローマの信徒への手紙10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあります。神の言葉を謙虚に聞くこと、そこから、語ることが始まるというのです。神の意図はまず「エッファタ・開け」と言って、彼の耳を開いたところにあると思います。
33節に「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出した」とあります。彼が癒されるためには何よりもまず、独りでイエスに関わることが求められています。つまり、彼ひとりと主イエスの関係です。言い換えれば、「縦の関係」です。主イエスとの関係が確立されなければならないのです。一人で神の前に立つことが出来て、他者との交わりは開かれるというのです。
わたしたちの生活の中から人の関係が失われつつあると言われます。それは一人一人が神の前に立つことが失われているからではないでしょうか。一人で神の前に立ち、罪を明らかにされ、その罪が赦される。また、自分の力ではなく、神に生かされている事実を信じることがまず大事です。言い換えれば、水平の関係ではなく、垂直の関係を確立しなくてはならない。横の関係も大切ですが、それ以上に縦の関係を配慮し、育てていかなければならないというのです。
ロビンソン・クルーソーの漂流記は冒険物語ですが、それ以上に神学的な小説であると言われます。クルーソーは両親の言うことを聞かないで、家出をし、船乗りになります。そして、航海に出て、大嵐に出会って遭難し、絶海の孤島に一人打ち上げられます。彼は孤島で20年間過ごすことになります。それは創世記のヨセフ物語に似ています。ヨセフはエジプトの牢獄に13年間過ごします。その間、ヨセフを支え、人間的に成長させたのは神の言葉であり、主がヨセフと共にいてくださると言う信仰であると言います。クルーソーも同様です。クルーソーは孤島に漂着すると、間もなく病気になり高熱が続きます。その苦しみと不安の中で、荷物の中にしまっておいた聖書を取り出して読み始めました。間もなく詩編50編15節の「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助ける」という御言葉に出会います。彼は膝づいて祈ります。生まれて初めての祈りです。詩編が言われる「悩みの日」とは、病気のことではなく、神から離れ生活している日々のことであることを知るのでした。「わたしはこの時から本当に神に祈った」と言っています。ロビンソン・クルーソーが、孤島の孤独の中で支えられたのは神への祈りであったとも言っています。言い換えれば、垂直の、神との縦の関係です。その神との垂直の関係が確立される時、水平の関係が確立されるのです。言い換えれば、それが主イエスの与える救い、福音です。神の関係を深く、広く確立しながら、日々祈り歩んで行きたいと思います。