2022年8月21日 「イエスの福音を信じる」マルコ福音書10章17-31節

与えられたテキストはマルコ福音書10章17-31節の「金持ちの男」の物語です。
イエスが十字架に向かって進んで行く途中一人の男と出会います。彼は霊的な平安と永遠の命を得られず、イエスに「先生、永遠のいのちを受け継ぐには何をすればよいのでしょうか」とひざまずいて尋ねました。イエスは「あなたが昔から教えられてきたことを忠実に守ればいい」と答えました。男は「先生、わたしは昔から教えられてきたことはずっと守ってきましたが、永遠のいのちを悟ることができません」と答えました。すると、イエスは「あなたに欠けていることが一つある。あなたが持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。それからわたしに従いなさい」と言われました。彼はそれを聞くと、顔を曇らせて、落胆しながら帰って行きました。彼は沢山の財産があり、それを捨てることができなかったからです。
それを聞いていた弟子たちは、イエスに疑問をもちました。イエスはいぶかる弟子たちを見て、「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか」と言われました。弟子たちは一層疑いました。イエスは「金持ちが神の国に入るよりもらくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。これを聞いた弟子たちは一層驚き、躓いたというのです。
弟子たちは昔から、地上の富、恵まれた健康、沢山の子どもなど地上の豊かさは、神の祝福の目に見える証拠と教えられ、信じていました。その教えを疑うことはありませんでした。しかし、驚いたことに、イエスは昔からの教えを否定するように富んでいる者が永遠の命を得ることは難しいと言われるのです。弟子たちは躓き、「それでは救われる人はいない。誰が救われるのか、誰も救われない」とイエスに反撥しました。
ルカ福音書6章20節に「貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである。富んでいるあなたがたは不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」と、ルカ福音書5章31節には「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』」とあります。イエスは福音の逆説を語っています。
28節に「ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。』と言いだした」とあります。ペトロは、イエスの言葉に従い、家、仕事、舟、家族を捨て従いました。しかし、永遠の命を得ることはできなかったと言うのです。この後、ペトロはイエスが十字架に付けられる時、自分を捨てきれず、イエスを見捨てて裏切ってしまいます。イエスの言われる貧しい者になることはできませんでした。その意味では、イエスが求めることは大変厳しいことです。弟子たちが躓くのは当然です。勿論、イエスは弟子たちを苦しめ、裁こうとしているのではありません。イエスの言葉は福音、喜びの訪れ、恵みです。それは言葉だけ聞いても分かりにくいです。所謂行間を読んで、イエスの思いを深く尋ねなければならないと思います。
榎本保郎先生は「このイエスの教えを理解するためにはパウロを参照すればよい」と言っています。パウロは「富める人」とは対極に立つ存在です。フィリピの信徒への手紙3章4-7節に「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことをキリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」とあります。「肉」とは「地上の冨、家柄、才能、功績」などを意味します。パウロはイエスを信じることによって、それら「地上の冨」が価値を失い、それどころか、損失になりましたといいます。
8節に「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵、あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」とあります。イエス・キリストに捕らえられると、イエス・キリスト以外のものが塵、あくたに見える。つまり、価値の逆転、回心が起こったというのです。つまり、主イエス・キリストにあって貧しくなることの幸いと神の祝福を述べています。
パウロはフャリサイ時代には地上の富を失うと生きていくことができないと思っていた。ところが、イエス・キリストを知ると、そうでないことを知ることができたというのです。捨てたら倒れてしまうのではないかと恐れ、捨てる勇気を持てなかったのに、キリストを知り信じると、恐れから自由にされたというのです。キリストが「捨てなさい」と言われるのです。他の人が命じるのではありません。イエス・キリストが一人一人に語りかけるのです。イエスを信じると、すべてのことから解放された自由の中で生きることができるというのです。
29節に「イエスは言われた。『はっきり言っておく、わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はだれでも。今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。』」とあります。イエス・キリストの約束の言葉です。全てがなくなり、喪失感で打ちのめされるのではありません。何の報いもないというのではありません。百倍が与えられるというのです。捨て、失ったものの百倍の喜びを受けるというのです。
27節に「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にはできることではないが、神にはできる。神にはなんでもできるからだ』」とあります。イエスの言葉をアーメンと受け入れ、信じ従いたいと思います。