2022年9月4日 マルコ福音書10章46-52節 「見えないものに目を注ぐ」

49節に「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、三つの単語を並べた文章があります。口語訳聖書は「喜べ。立て。お前を呼んでおられる」と、文語訳は「心安かれ。立て。汝を呼びたもう」となっています。ヨハネ福音書16章33節に「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とありますが、「勇気を持て」と訳している聖書もあります。「安心しなさい」は、バルティマイの気持ちを思い測っての訳ではないかと思います。バルティマイはイエスが近くを通っていることを知り、大声で「わたしを憐れんでください」と叫び続けました。多くの人々は彼を叱りつけました。バルティマイは混乱した状況の中で「あなたを呼んでいる」と言われたのですから、混乱したと思います。彼は目が見えません。いろいろと不自由なことがあり、心を弱くし、不安と恐怖に襲われたと思います。そういう状況の中で「安心して行きなさい。」と言われたのです。イエスは恐れおののくバルティマイを勇気づけ励まそうとし、「恐れることはない。勇気を出しなさい」と言われたのです。安心できる理由と根拠が、バルティマイにあるのではなく、イエスにあるのだという事実を明らかにしています。バルティマイの中を見れば「不安」のことが一杯あります。「叱りつけるために、呼んだのだろうか。」、「自分に呼ばれる資格があるだろうか。」「妨害している者たちがもっとひどいことをしないだろうか。」など、バルティマイの中には次々と疑いや不安が生じ、安心できる根拠を見つけ出すことはできません。安心できる根拠がバルティマイの中にあるのではなく、イエスにあるのです。イエスが呼んでくださるから。イエスが憐れみ、心をかけ、顧みてくださるから、安心することができるのです。つまり、安心と平安の根拠をバルティマイの中に見つけるのではなく、イエス・キリストに見つけるのです。その真理をこの物語は伝えているのではないでしょうか。
50節に「盲人は上着を脱ぎ捨て、踊り上がって、イエスのところに来た」とあります。この「上着」は「大きな布」のことです。寝るときに敷き、その上に寝転び、身体を覆う布です。起きているときには、施し物を置いてもらう布です。その「布」は彼にとって自分の身を守る防具でもあり、唯一の財産でありました。それを捨ててしまう程の喜びです。イエスの呼びかけは全てを捨ててしまう程の喜びになったというのです。マルコ福音書2章には、徴税人のレビが収税所に座っているとき、イエスが声をかけました。するとレビは立ち上がり、全てを捨ててイエスに従ったと記されています。ルカ福音書19章のザアカイも、そうです。背の低かったザアカイはイエスを見るためにイチジク桑の木に登っていました。その時、イエスは「ザアカイよ。急いで下りてきなさい。今日あなたの家に泊まることにしている」と呼びかけました。すると、ザアカイは立ち上がって、「主よ。わたしの財産の半分を貧しい人々に施します」と答えています。バルティマイも徴税人レビもザアカイも、イエスから「呼びかけられる」ことは何ものにも替えがたい、計り知れない喜びでありました。
イエスはバルティマイに「何をしてほしいか」と尋ねます。すると、バルティマイは「見えるようになることです」と答えています。当たり前の話しです。イエスはどうして分かりきったことを尋ねるのでしょうか。イエスは全てをご存知ですから、バルティマイが何を欲しているか十分に知っているはずです。それなのに尋ねるのはどうしてでしょうか。それはバルティマイの思いをイエスに集中させようとされたのではないかと思います。イエスとバルティマイの間に人格的な関係を生み出そうとされているのです。「我と汝」の関係というように、イエスとしっかり向き合う関係を求めているのです。ペトロはイエスに顔を向け、イエスを見つめている間は荒れ狂う湖の上を歩くことができました。しかし、イエスから目を離し、足元の荒れ狂う湖の波を見たとたん、溺れ沈んでしまったといいます。イエスに向き合い、イエスのみを見上げていくことが求められます。イエスを見つめることが信仰の本質だといいます。
52節には「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とあります。ここにはバルティマイが癒やされる方法も言葉も出てきません。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉があるだけです。「信仰が救った」と言いますが、バルティマイの信仰の力によってということではありません。バルティマイ物語は終始一貫自分の力で救われたのではないと言っています。彼はただ苦しみの中から叫びました。それだけです。イエスはバルティマイの叫びに心を動かされ、応えているのです。
51節に「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、「先生、『目が見えるようになりたいのです』と言った」とあります。ある聖書は「見ることのできる眼差しが欲しいのです」となっています。「眼差し」は人の悲しみを見ることの出来る眼差しを意味します。言い換えれば、苦しんでいる人に向けることができる目、自分の罪を見ることができる目、イエス・キリストを仰ぎ見る目を意味します。世の権力に目を奪われることなく、神が独り子イエスを十字架に献げるほどに愛されている世であることを見ることができる目と眼差しを与えて欲しい。信仰の目を与えて欲しいと言うのです。バルティマイの願いは他でもなく、わたしたちの願いと祈りでもあります。見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ眼差しを求めていきたいと思います。