2023年4月23日 「信仰の恵み」民数記13:30-14:4 ヨハネ福音書6:1-11

テキストは民数記13章30-14章4節です。モーセがエジプトを脱出し、約束の地カナンの手前まで来て、カナンを偵察するために12名の斥候を選び、送り出しました。彼らは40日間カナンを偵察し、その結果を報告しました。30節に「カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。『断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。』」とあります。彼は積極的、肯定的な報告をしています。31節には「しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、『いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い』と言い、イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。『我々が偵察してきた土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムです。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。』」とあります。10人の偵察隊の報告は、カレブの報告とは全く違っています。 同じものを見たのに、この相違は何でしょうか。 「いなご」は、「隠れているもの」という意味で、「役立たないもの、自己卑下、自己否定、劣等意識、被害者意識」を意味します。この彼らの被害者意識、自己否定はイスラエルの民を苦しめたと言われます。

14章1節には「共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。『エジプトの国で死ぬか。この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣でころそうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。』そして、互いに言い合った。『さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう』」とあります。イスラエルの民は10人の斥候の悲観的で、否定的な考えに洗脳されて、「なぜ、我々をエジプトから導き出したのか。エジプトにいた時は奴隷だったが、それでもエジプトの方がずっと良かった」と、モーセを責め、責任を転嫁しました。また、「さあ、我々はモーセとは違った指導者を立てて、エジプトに帰ろう」と、モーセを排斥し、エジプトに戻ろうとしました、イスラエルの民の自己卑下、劣等感、自己否定はイスラエルの共同体の崩壊を招きました。

イスラエルの民は、なぜ自分たちをいなご、虫けらだと自己卑下、自己否定に陥ったのでしょうか? 言い出したのは10人の偵察隊の隊長です。彼らはアナク人を見て、ネフィリム(創世記6:4巨人)と思い違いをしました。彼らは常にアナク人と比べ、その比較によって自分たちを評価していました。そこに彼らの誤りの原点がありました。しかし、モーセ、カレブとヨシュアは自分を他の何ものとも比較しないで、神の目で自分を見て、自己を理解しました。10人の斥候隊の隊長は、自分の目で見ますから、アナク人をネフィリムに見てしまうほど倒錯します。自分の存在が、小さな存在、取り柄のない、つまらない存在に見えてしまうのです。

イザヤ書43章4節に「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセパをあなたの代償とする。わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」とあります。イザヤは、自分をヤーウェの神に創造された存在であると信じています。神の被造物であることが自己理解の原点だと言います。

ダグ・ハマーショルドは、「多くの人は、他の人よりも優れているか、いないかが常に重大な関心事になっている。しかし、あなたがたの間ではそうあってはならない。あなたがたにとって、自分になりうる者になっているか、それとも、なりうる者になっていないかが、より本質的な問題である」と言います。問題は、モーセはアロンより優れているか、ヨシュアより勝っているかではない。モーセという名前 (ヘブル語マーシャー・引き出す)のように、イスラエルの民をエジプトの奴隷から引き出す者になっているかである。言葉を変えて言えば、神の使命に生きているか。それが本質的な問題であるというのです。

ヨハネ福音書6章1節以下に、イエスが五つのパンと2匹の干し魚で、5千人の群衆を給食する物語があります、その日、群衆は朝から夕方まで、ずっとイエスの傍で、教えを聞いていました。それを見たイエスは、弟子のフィリポに「この人たちを食べさせるには、どこからパンを買えば良いだろうか」と尋ねました。フィリポは「この人たちにパンをやるには、2百デナリ(1デナリは男子の1日の労働賃金)分のパンでも足りないでしょう」と答えました。もう一人の弟子のアンデレは、「ここに大麦のパン五つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いました。弟子たちの悲観的な態度は民数記のイスラエルの民と共通しています。弟子たちは、自分たちの前に立ちはだかる現実に圧倒されて、「何の役にも立たない」と呟くのです。イエスは、弟子たちの呟き、自己卑下、無力感、絶望から救おうと、大麦五つのパンと2匹の魚で給食されました。

12節に「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた」とあります。「人々が満腹した」とあります。「満腹した」は、「腹一杯になる」という意味ではなく、「キリストのあふれる豊かさに満たされる」という意味です。確かに、わたしたちも圧倒される現実に直面して、恐れと不安で、立ち竦んでしまいます。しかし、それにまして、キリストの命に満たされます。ヨハネの手紙Ⅰ5章4節に「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」とあります。サムエル記上17章にダビデがゴリアトと戦う物語があります。ゴリアトは身の丈6アンマ半(3メートル)、青銅の兜、うろこ綴じの鎧、青銅のスネあて、投げやり、機織りの棒のような槍、完全武装して立ちはだかります。少年ダビデは、サウル王から「お前には無理だ」思い違いをしてはいけないと、戦いを止められました。しかし、ダビデは王の反対を押し切って、戦いに挑みます。野で、ししや熊からわたしを守って下さった神は、ゴリアトとの戦いでも必ず守って下さるに違いない、と純粋に神を信じるダビデと、現実に目を奪われ、神を見失っているサウル王とを対照的に描いています。サウル王は、巨人ゴリアトが彼らの前に立ちふさがったとき、彼らを奮い立たせるものを持っていませんでした。しかし、ダビデは純粋に、素直に神を信じ、信頼し、神のためにという信仰を持っていました。その信仰がダビデをして厳しい現実に立ち向かわせ、打ち勝せました。ダビデのように、どのような現実に直面しても、神を信じて、神に依り頼んで、臆することなく、立ち向かって行きたいものです。