与えられたテキストは詩編56編1-14節です。大阪の茨木市に梅花学園女子大学があります。前身の梅花女学校の創設者は沢山保羅です。沢山は25歳でアメリカ留学から帰国し、新島襄から按手を受け、浪速教会、梅花女学校を設立しました(明治11年)。26歳の時、結婚します。その翌年長女が誕生しました。次の年に次女が生まれますがが、生まれて二ヶ月で亡くなります。続いて父が55歳で亡くなり、続いて母が48歳で亡くなります。更に悲劇は続き、沢山が31歳の時、妻たかが22歳で亡くなりました。亡くなってから、実家のベッドの下から夫の沢山宛ての手紙と祈りの文章が出てきたそうです。翌年沢山も結核で倒れ、入退院を繰り返し、浪速教会を辞任しました。そして、明治20年、沢山は亡くなりました。34歳でした。一人残った長女いさは明治32年、21歳で亡くなられました。沢山保羅の生涯を聞かされると、涙が出てきます。34歳の短い人生です。妻をはじめ、両親、子供を亡くすという悲しい経験をしています。人生は不条で、矛盾に満ちていると言われますが、沢山の生涯も苦難と試練の連続です。最愛の妻を失い、子どもを亡くします。沢山自身も病気になり、命を掛けて守ってきた浪速教会の牧師を辞任しなければなりませんでした。それでも、沢山保羅は希望を失い、絶望しませんでした。
沢山保羅を支えたものは何か。マタイ福音書5章4節の「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」、詩編56編9節の「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」という御言葉があります。それら多くの神の言葉が沢山保羅を支えたと言われます。今日はその御言葉を学びたいと思います。
詩編56篇の背景ですが、ダビデがサウル王の追跡を逃れて、天敵のペリシテ人の王アキシュに、気の狂った振りをし、助けを求め、辛うじて危機を脱しました(サムエル記上21章11節以下)。その時に詠んだ詩だと言われています。しかし、多くの旧約聖書学者は、ダビデの詩ではなく、バビロン捕囚の中の無名の詩人が詠んだ詩であると言っています。バビロン捕囚はイスラエルの人々にとって最も悲惨な出来事でした。捕囚の悲しみと苦しみは言葉で表現できないほど深刻でした。イスラエルの人々は異教の国バビロニアに捕虜として連行され、故郷エルサレムと家族と生き別れ、別離の悲しみを経験しました。詩編56編はその捕囚の悲しみの中で、詠んだ詩であると言われています。この詩編56編がダビデの言葉にしろ、捕囚民の一人にしろ、理不尽な目に遭い、打ちひしがれている孤独と悲哀と絶望している実存を表しているのは確かです。
6節に「わたしの言葉はいつも苦痛となります。人々はわたしに対して災い謀り、待ち構えて争いを起こし、命を奪おうとして後をうかがいます。彼らの逃れ場は偶像にすぎません。神よ、怒りを発し、諸国の民を屈服させてください。」とあります。詩人は、「わたしを苦しめる者を打ち倒して、わたしに報いてください」と祈っています。しかし、神は彼の祈りに応えてくれません。何時まで経っても救いのしるしは見えないのです。同じ「嘆きの歌」に類する詩編22篇2節には「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きの言葉を聞いてくださらないのか。」とあります。神は自分のことを覚えていない。忘れている、わたしを見捨てたと呟いています。しかし、22編の詩人も、56編の詩人も虚しい思いになり、諦め、絶望しません。そこが信仰的だと思います。彼らは忍耐強く祈っています。そこが彼らの信仰の素晴らしいところであると思います。
9節に「あなたはわたしの嘆き(夜通し寝返りを打つ、心を悩ますこと )を数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」とあります。「数える」は「顧みる、知っている、思いはかる」という意味です。言い換えれば、「神は、わたしが夜通し寝返りを打って苦しんでいるのをご存知で、必ず、顧みてくださいます」となります。「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」とあります。パレスチナは砂漠と荒れ野ですから、飲み水の携帯は欠かせません。出エジプトの時代には、イスラエルの民は荒れ野で飲み水を失い、渇きに苦しみました。革袋は荒れ野を旅する者の命の根源です。神はその革袋に、わたしたちがいろいろな場面で流す涙を蓄えてくださる。蓄えるだけでなく、わたしたちの流す涙を御自身の命としてくださるというのです。出エジプト記3章14節以下で、神は「わたしは有ってある者、わたしは有る方である」と言われるように、神自体で存在し得る方です。その神がわたしたちの流す涙を命としてくださるというのです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ1章4節に、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」とあります。この「慰めてくださる」は、「傍ら」と「招く」から成っています。つまり、神は苦難の中にいる人を傍らに招いてくださるというのです。マタイ福音書5章4節に、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」とあります。「慰められる」は受動態で、「神によって」があります。「悲しみ」は「大切なものを喪失する、重要な意味を持っていたものを失う、喪失から生じる心の痛み、悲嘆」を意味します。何をもっても慰められない悲しみを意味します。しかし、その喪失の悲しみが神によって慰められるというのです。
阿南慈子(あなみいつこ)という方が「神様への手紙」という著書を出版されています。阿南さんは、34歳の時、難病の多発性硬化症を発病し、寝たきりの闘病生活が始まりました。二人のお子さんを持つ母親で、子どもたちに、夫に申し訳ないと思いに負けそうになると言っています。しかし、その悲しみの中で、神は素晴らしい慰めを与えてくれるという信仰に至ります。彼女は「実に幸いなことに、病を得て、神様と親しくなることができた」と告白しています。悲しいことに会いたいと思う人はいません。しかし、人生は不条理ですから、悲しみは避けられません。悲しみに出遭います。問題は、その悲しみをどのように受けとめるか、課題です。阿南さんが「悲しみ会ったことは、わたしには良かったのです。神の慰め、信仰の真理を発見することができるからです。悲しみの中で神に出遭い、永遠の命という素晴らしい慰めを得ることができるからです。」と告白できるように、わたしたちも導かれたいものです。