出エジプト時代のイスラエルの人々はエジプト人の奴隷で、過酷な労働のために苦しみの叫び声を上げていました。その叫び声は神に届き、神は心を動かし、イスラエルの人々をエジプト人の奴隷から解放し、神の約束の地カナンに導きました。出エジプト記はイスラエル人のエジプト脱出が如何に困難であり、40年間の荒れ野の彷徨が如何に難事業であったかが記されています。神を信じているイスラエルの人々にはエジプト人の奴隷から脱出されたいという強い思いがありました。しかし、出立する決断ができませんでした。かたくななエジプトの王は出立を妨害し、イスラエルの人々もかたくなで、出立ができませんでした。エジプトに居れば、人間としての自由と尊厳はありませんでした。しかし、肉を食べることはできるし、飲み水も手に入りました。しかし、出立したら、食べること、飲むことに苦難と苦労をしなければなりません。神の約束の地は乳と蜜の流れる地と言っても、そこに至る道のりは遠く、砂漠と荒れ野を乗り越えなければなりませんでした。その困難と苦難を思うと、エジプトに残る方が自由はありませんが、食べることはできましたので、出立できませんでした。
ドストエフィスキーに「人間は慣れる動物である」という言葉がありますが、イスラエルの人々は奴隷生活に慣れてしまいました。慣れることは生き延びることはできますが、人間として本質的な生きる使命をもつことはできません。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章14節に「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」とあります。人が生き甲斐と生かされている喜びをもって生きるためには、「内なる人」が日々新たにされてなければならないといいます。同様に、イスラエルの人々が、神の民としての真の命ある存在であるためには、内なる人が日々新たにされなければならないと言います。言い換えれば、外なる古い人から脱出し、出立しなければならないというのです。しかし、イスラエルの人々にとって出立つは至難の業でした。自分の力だけでは不可能であり、神を信じる信仰と希望があってはじめて可能でした。
「出エジプト記」は70人訳聖書では「エジプト エクソドス」となっています。「エクソドス」とは「脱出、救出、外に出る」という意味で、本来「エジプト脱出記」です。実存的に解釈すれば、古い自分から脱出して、本来の自分になる物語です。エフェソの信徒への手紙4章21節に「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません。」とあります。「古い人を脱ぎ捨て」は、「アポ・解放、出発、離れる」と「ティセミー・執着、固執」の二つの語からから成っています。つまり、「我執、執着、囚われから解放される」ことを意味します。「古い人」は、「パライオン」と言い、「古びた、年取った、昔の」などの意味です。つまり、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなればならないというのです。
出エジプト記13章3節に「主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。」、9節に「主が力強い御手をもって、あなたをエジプから導き出されたからである。」、14節に「主は、力強い御手をもって、我々を奴隷の家、エジプトから導き出されたからである。」、16節に「主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである」とあります。モーセは神から「古い人を脱ぎ捨て、自分の外に出なさい」と命じられました。すると、モーセは「なぜ、わたしでなければならないのか。わたしにはとてもできません」と神の言葉を拒んでいます。それも四回も拒んでいます。それでも神はモーセに「神の力強い御手があるので、エジプトを脱出することができる」と熱心に言い聞かせています。古い自分を脱出し、新しい人を着ることは、自分の力では不可能なことで、神の力強い御腕に導かれて初めて可能であるというのです。
ヨシュア記24章32節に「イスラエル人々がエジプトから携えてきたヨセフの骨は、その昔、ヤコブが百ケシタで、シケムの父ハモルの息子たちから買い取ったシケムの野の一画に埋葬された。」とあります。出エジプト13章19節にも、モーセがエジプトを出立するとき、ヨセフの遺言に従って、「ヨセフの骨」を携えていたと記されています。この「骨」は、ヘブル語で「エセム」と言い、ヨセフの存在全体を意味します。つまり、携えていたのは、ただヨセフの亡骸だけではなく、ヨセフの信仰、志、精神であったというのです。ヨセフは若い時には、傲慢でかたくなでした。しかし、ある出来事を契機に、神に出会い、悔い改めさせられ、神を信じ受け入れる存在に変えられました。創世記45章8節に「神はあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたより先に遣わされたのです。それゆえ、わたしをここに遣わしたのはあなたがたではなく、神です。」とあります。ヨセフの信仰です。この信仰がヨセフの苦難の日々を支え、導きました。その神への信仰を携え、支えられて、モーセは出立したというのです。
ヨセフはヤコブの12人の息子のうち、11番目の息子でした。豊かな才能と能力に恵まれていたために、自分の力と才能を誇り、傲慢に育ちました。そのために兄たちに恨まれ、半殺しにされ、エジプト人に売り飛ばされ、エジプト人の侍従長ポティファルに買われ、奴隷になりました。やがて、神に導かれて、エジプトの大臣になります。そこにパレスチナ地方の飢饉のために、11人兄弟が穀物を求めてエジプトに降ってきました。そこでヨセフは自分を裏切った兄たちと再会します。ヨセフはじめは自分を隠していましたが、隠し切れず、自らを名乗り出ます。驚いた兄たちはヨセフに涙ながらに犯した罪を告白し許しを請います。
創世記50章19節に「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」とあります。ヨセフの信仰告白です。一切の根源に神がおられることへの感謝、神への信仰、神はすべてを支配し、導き、完成へと至らせると告白しました。ヨセフが父ヤコブの家にいたら、違った人生、平穏な人生を歩んだにちがいありません。しかし、不条理にも、兄たちにエジプト人の奴隷として売られ、苦難と絶望を経験し、辛酸をなめさせられました。しかし、その経験から、悪を善きに変える神を信じるようになりました。人生の何事にも背後に神の計画と導きがあることも信じることができるようになりました。モーセもまた、神の信仰を携えて、出立しました。モーセも不幸を善き変える神を信じる信仰がなければ、出立つと前進はなかったと思います。箴言19章21節に「人の心には多くの計画がある、しかし、ただ主の、御旨だけが堅く立つ。」とあります。神の計画、摂理を信じなければ、出立つし、前進することはできません。神の導きと支えを信じて、出立したら、神の恵みに与ることができます。ヨセフとモーセに満ち溢れるように働いた神の恵みを信じ受け入れていきたいと思います。