2023年7月16日 「神の言葉に命を懸ける」  使徒言行録20:17-24 マルコ福音書14:32-42

或る方が亡くなられたとき、最期の力を絞って、「大変お世話になりました。ありがとうございました。皆さんによろしく伝えてください」と、感謝の言葉を言われましたことを思い起こします。彼は76歳でした。論語に「人の将に死なんとする其の言や善し」という言葉があります。人の死の間際の言葉には飾りや偽りはなく、純粋で、真実で、人を救い、人を生かす力と真理があると言われます。彼はその事実を証ししてくださったと思います。以前に「変わる葬式、ある家族の選択」というテレビ番組がNHKで放映されたことを思い出します。その方は自宅で最後を迎えました。彼は「樹を植えよ。輝け、自由、我ら、地(つち)に生きん」という言葉を遺して逝かれました。彼は生前、妻や娘に優しい言葉をかけることもなく、家族関係は疎遠で孤独であったそうです。しかし、いよいよ終末期になり、最後を迎えると、「ありがとう。共に生きてきたことを感謝する」と、妻と娘に言い遺されたそうです。彼の最期の言葉は、妻や娘の慰めになり、生きる力になり、平安と恵みになりました。死を前にして、遺して逝く言葉は人間の言葉ですが、純粋で、真実で、永遠で、普遍的な真理を持っていると思いました。

使徒言行録20章17節に「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来た時、パウロはこう話した。『アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足らない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながら、主にお仕えしてきました。』」とあります。パウロのエフェソ教会の長老たちとの別れの言葉です。その意味ではパウロの最後の言葉、遺言です。「自分を全く取るに足りない者と思い」は、口語訳は「謙遜の限りを尽くして」となっています。原語は「謙遜な心と素直な心」からなっています。

フィリピの信徒への手紙2章6節には「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。パウロはエフェソの教会の長老たちに、自分は神に従順なキリストに従って生きてきたと告白しています。別の言葉で表現すれば、神を神とする。他の何ものも、世の財力と権力、思想、それら世の如何なるものをも神としないで、主なる神のみを第一とする生き方をしてきたというのです。例えば、神と自分が入っている二つの袋がつながって一つになっています。神の袋を大きくするためには、自分の袋を小さくしなければなりません。自分の入っている袋を大きくすれば、神の入っている袋は小さくなります。つまり、神の名を大きくし、神の名を崇めるためには、自分の袋を小さくしなければなりません。パウロが「キリストは、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」というように、自分を小さくし、無にしなければ、神の名を大きくし、崇めることはできません。

19節に「すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながら、主にお仕えしてきました。」とあります。この「仕える」は「縛られる、奴隷になる」という意味です。名詞になると「奴隷」です。奴隷は主人が代金を支払って買い求めた「物」で、自分の意志は全く認められません。ただ、ひたすら主人の意志に従わなければなりません。神との関係もこの主従関係で、パウロは喜んで、神にひたすら仕えてきたというのです。マルコ福音書10章45節に、「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためにきたのである」とあります。イエスは贖いとしてご自分を犠牲にし、ご自分を捨ててくださいました。パウロはイエスに倣って、徹底的に神に仕え、自分の人生を神に献げていくというのです。

22節に「そして今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。」とあります。この「促す」は「枷を懸ける、鎖でつなぐ、縛る」などの意味があり、神に従うということは、神に縛られ、神に繋がれて、引き出されて、という意味があります。パウロは信仰と伝道の生活は神の鎖につながれて引き出されるような思いで行われると言います。しかし、矛盾しますが、信仰と伝道は、誰からも強制されることではなく、しないでいられないという内的な情熱と促しから生まれる。そこに神の祝福があると言われます。  

ヨハネ福音書21章18節にはイエスがペトロに言った言葉、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれる」が記されています。神に仕えることは、自分を捨てて、主の御旨に従うことがあると言います。パウロには、ローマ伝道の願いがありました。しかし、ローマに行けば捕らえられ、投獄される危険がありました。エフェソの長老たちは、パウロがローマに行くことを引き止めています。パウロの心の中には葛藤がありました。そのとき、神の不思議な力が働いて、パウロをしてローマ行きへと駆り立てられました。信仰の世界は人間の打算や利害を越えた、霊的な世界があります。マルコ福音書14章34節に「彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』。少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」とります。イエスは祈りの結果、自分を捨て、主の御旨に従って生きることに、ご自分の道を見出されました。パウロも「自分に決められた道を走り切る」と言っています。パウロの「自分に決められた道」とは、パウロがパウロとして生きる人生、神の福音を力強く証しするという使命です。言い換えれば、福音のためなら命を捨てても良いという命がけの道、神の使命です。パウロの遣わされた者としての生き甲斐です。イエスは命を懸けて、神の命を与えようとしました。イエスの命を与えられた者は幸いです。イエスの恵みに与りましょう。