テキストはヨナ書3章1節-4章11節のヨナ物語です。3章1節に「主の言葉が再びヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベへ行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ』。 ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。」とあります。「再び」とありますから、1回目があります。1章1節に「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。』」とあります。それが一回目の「ニネベ行き」です。しかし、一回目のニネベ行きは、ヨナがニネベを恐れて、拒否し、タルシシュ行きの舟に乗り込みました。ニネベは、サルゴン王センナケリブが強力な軍事力で、侵略と略奪で得たアッシリアの首都です。センナケリブ王は絶体的な権力を所有し、振るっていましたから、ニネベを恐れない者はいませんでした。
ヨナは「鳩」という意味で、人一倍臆病者で、ニネベを大変恐れていました。1章1節に「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。』」とあります。ニネベは神に逆らい反抗し、神を軽んじる都であることを知らない者はありませんでした。神は、ヨナにその悪行のニネベに行き、「神の裁きと滅びを告げよ」と命じたのです。神は最も厳しい使命と任務を臆病なヨナに負わせるのでした。
ヨナは、このときは、神の言葉に堪え切れず、逃げ出しました。ニネベではなく、タルシシュ行きの船に乗り込みました。途中、運悪くヨナが乗り込んだ船は嵐に襲われました。当時の慣習から、荒れ狂う海を静めるために、ヨナは海に投げ込まれました。すると、不思議なことに、ヨナは大きな魚に呑み込まれ、三日間閉じ込められていました。三日目にヨナは魚の腹から吐き出され、陸地に打ち上げられました。不思議なことに、そこはヨナが恐れていたニネベの海岸でした。
すると、再びヨナに神の言葉が臨みます。3章1節に「主の言葉が再びヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。』」とあります。「お前」と訳されていますが、厳密には「あなたに」です。神は、任に堪えかねて、逃げ出す臆病で弱虫のヨナに、「あなた」と呼びかけています。神は委託に応えられず、逃げ出す臆病で不信仰なヨナを丁重に扱う、憐れみと慰め深い神です。
ヨナは、今回は神の言葉に従い、ニネベに行き、ニネベの人々に「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と告げました。すると、驚いたことに、ニネベの人々は身分の低い者も、高い者も、王も皆、ヨナの言葉を受け入れ、悔い改めたと言います。ところが、ヨナはニネベの人々の悔い改めを喜べなかったというのです。
4章1節に「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。」とあります。ヨナは、ニネベを憐れみ、思い直す神に不満を抱き、怒るのでした。ヨナは寛容な心を失い、偏狭の裁きの罪を犯しました。4章4節に「主は言われた。『お前は怒るが、それは正しいことか』」とあります。神はヨナをたしなめています。優しい赦しの神を忘れ、高慢になったヨナは、「ニネベを罰しないなら、生きているよりも、死ぬ方がましだ」と、神に迫っています。ヨナは思い上がり傲慢になり、神に対して罪を犯しています。6節に「すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。」とあります。神は、傲慢で罪深く弱いヨナを許し、立ち直らせ、もう一度、ニネベに派遣します。神は永遠に変わらない慰めと許しの神であることを証しています。
パウロはパウロの命の恩人であるバルナバと、第一回の伝道旅行に出掛けます。その時、マルコという若者を連れて行きました。しかし、マルコはパンフリアのペルゲで、一行と別れ、引き返してエルサレムの実家に帰ってしまいました(使徒言行13:13)。福音伝道はどこへ行っても妨害と迫害が加えられ、命の保証すらないほどの困難と苦難が伴いました。マルコも同様で、厳しい迫害に出遭いました。ところが、マルコは厳しい迫害に耐えかねて、心を弱く、エルサレムに帰ってしまったようです。その後、パウロが二回目の伝道旅行を計画したとき、バルナバはマルコを連れて行こうと主張しました。しかし、パウロは伝道の途中で、苦しみ耐えかねて逃げ出すような者を連れて行くことはできないと反対しました。伝道旅行をめぐって、パウロとバルナバとは意見が対立しました。結局、その後、パウロとバルナとは別行動を取ることになりました。パウロは、迫害に遭うと言って、伝道の途中で引き帰ってしまうような者を連れて行くことはできないと、非常に厳しい意見です。しかし、神はヨナやマルコのような神の言葉を告げることを恐れ、逃げ出した者を再び用い、遣わします。神は臆病で弱く、罪深い者を許し、やり直しの機会を与え、再出発の時を与えてくれます。
3章3節に「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」とあります。原文には「直ちに」はありません。「直ちに」書き加えることによって、三日間の大魚のお腹の中での罪の赦しの経験が、ヨナをして、喜んでニネベに行かせたというのです。また、原文には、「神の言葉に服従し」という言葉があります。意訳すると、「ヨナは神の言葉に服従し、喜んでニネベに行った。」となります。ヨナは海に投げ込まれ、大きな魚に呑み込まれ、真っ暗闇の中で、死ぬような苦しみを経験しました。その苦しみの経験を通して、神に逆らって、自分を通そうとしても無駄である。神に従うことにこそ生きる道があることを悟ったというのです。ヨナは苦しみの経験を通し、神の御心を尋ね、神の御心に自分を重ねていく。そこに真実な道があるいうのです。
3章1節に「主の言葉が再び臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ』」とあります。1回目の神の言葉がヨナに臨んだ時には、ニネベに遣わされる理由と目的が述べられています。しかし、今回は、遣わされる理由は述べられず、ただ「わたしがお前に語る言葉を告げよ」とだけ命じています。つまり、神が語れと命じられた言葉のみを語ればよいというのです。「わたしがお前に語る言葉を告げよ」の「告げる」は「宣告する、通告する」という意味です。宣告ですから、ニネベが承認にしょうが、反対しようが、語らなければならないというのです。語るヨナには思い患いとか、心配はいらないというのです。
ヨナは神の言葉を運ぶ器に過ぎない。器・道具の存在に徹すれば良いというのです。ヨナは一人で巨大な都ニネベに向かって、神の言葉を語っています。ヨナは神の言葉の力を実感したと思います。マタイ福音書7章13節に「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道は細いことか。それを見いだす者は少ない。」とあります。神の言葉を語る者は孤独で厳しい道を歩まされます。しかし、その道の先には永遠の命、神の祝福が備えられています。イエスの信仰の勝利を信じ、勝利が与えられる道であると信じて歩んで行きたいと思います。