預言者エレミヤはベニヤミンのアナトトという小さな村の祭司家の出身です。1章6節に「わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。』」とあります。この「若者に過ぎない」と言いますから、エレミヤが召命を受けたのは青年時代だったと思われます。学歴も、業績、社会的地位はありませんでした。6章1節には「災いと大いなる破壊が北から迫っている。美しく、快楽に成れた女、娘シオンよ、わたしはお前を滅ぼす。」とあります。1章13節には「主の言葉が再び臨んで言われた。『何が見えるか。』わたしは答えた。『煮えたぎる鍋が見ます。北からこちらへ傾いています。災いと大いなる墓が北から迫っています。』」とあります。「煮えたぎる鍋」とか、「北からの災い」は、バビロニアの南ユダ王国侵略を意味します。前七世紀には、バビロニアがアッシリアを倒し、覇者となりました。バビロニアの侵略が起こると、エルサレムは破壊され、占領され、多くの人々が捕囚としてバビロニアに連行されました。しかし、エレミヤはエルサレムに残され、総督を助け、南ユダ王国の復旧、再建に当たる役に任命されました。しかし、不運にも総督が暗殺され、エルサレムは混乱し、エレミヤはエジプトに逃れていきましたが、エジプトで殉教の死を遂げたと言われます。エレミヤが活躍した時代は、二回のバビロン侵略戦争、エルサレムの破壊と捕囚、死と暗黒、犠牲と滅亡時代でした。エレミヤは激変の時代の中で、時代を超えた神の真理と支配を見出し、神の言葉を語りました。そのエレミヤの語った神の言葉、神の真実を見出したいと思います。
6章16節に「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か』と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』しかし、彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と。」とあります。南ユダ王国の人々の前には、さまざまな、いろいろな道がおかれている。21章8節には「わたしはおまえたちの前に命の道と死の道を置く」とあります。エルサレムがバビロン軍によって包囲された時の言葉です。南ユダ王国の人々の前に命の道と死の道が置かれている。どの道を歩むかは、人によって異なります。誰にも、体が二つないように、一つの道を選ばなければならないというのです。口語訳聖書は「さまざまな道に立って」を「別れ道、岐路に立って」と訳しています。エルサレムの人々は別れ道,岐路に立たされ、左に行くか、右に行くか。つまり、神の教えに従うか、拒むか、岐路に立たされているというのです。
エレミヤは、イスラエルの人々は神の前に立つ存在であり、神の道を選ぶ決断を迫られている存在であると把握しています。16節に「さまざま道に立って、眺めよ」とあります。「眺めよ」では、その意味が十分に伝わらないのではないかと思います。口語訳は「よく見よ」と訳しています。元来は「よく考える、よく理解する、検証する、吟味する」という意味で、「良く考え。よく吟味しなさい」となります。しかし、エルサレムの人々は、「自分でよく考え、吟味する」ことをしませんでした。エレミヤが神の言葉を語っても、彼らは耳を閉ざし、聞こうとしませんでした。所謂偽預言者たちが、平安がないのに、平安、平安と言って、おもね、気に入ろうしているのに、それに気づかないで、偽預言者の語る言葉を鵜呑みにし、心を眠らせられているというのです。エルサレムの滅びは避けられないとエレミヤは警告します。エレミヤはただ一つ道、神に従う道を選ぶために、自分で考え、自分で理解し、自分で検証し、吟味し、自分で確かめ、判断しなければならないと言います。更に、昔からの道に問いかけてみよと言います。「昔」とは、口語訳では「いにしえ」となっています。古い道のことで、歴史的言えば、イスラエルの人々がエジプトから救い出され、歩んだ荒れ野と砂漠の道のことです。エレミヤの言葉によれば、「若いときの純情、花嫁の時の道」、つまり、神とイスラエルの関係が新婚の夫婦のようで、神との関係に他の何物も入り込むことができない、深い篤い信頼と愛で固く結ばれて歩んだ道です。互いに思い合う愛が苦難を覆い、苦難に打ち勝った道です。また、神のための労苦を厭わない道です。エレミヤは、「いにしえの道」に問いかけてみよと言います。「問いかける」は「調べる、学ぶ」という意味です。つまり、過去の歴史を調べ、学べというのです。過去の歴史の学びは、現在を知り、将来を見通すために必要不可欠であると言われます。鏡にうつして自分を知るように、いにしえの道に照らして、自分に与えられた、自分の歩むべき道を選ぶべきであるというのです。16節に「昔からの道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。しかし、彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と。」あります。「幸いに至る道」は単数で一つの道です。人生が一つしか選ぶことしかできないように、一つの道を選ぶべきであるというのです。「すべての道はローマに通ずる」とか、「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺(たかね)で月を見るかな」などの言葉のように、どの道を歩んでも、結局行き着くところは同じであるという言葉がありますが、エレミヤは命に至る道は、ただ一つであるといいます、その道は平等に誰の前にも置かれています。その道を選ぶべきであるというのです。
マタイ福音書7章13節に「狭い門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者は少ない」とあります。イエスが選べと教える道は、巾の狭い、細い道です。エルサレムの人々が、エレミヤに対して、「しかし、われわれは歩まない」と言って拒否したように、イエスの道はいろいろな不利、不便、苦難が伴います。選ぶ人は少数です。しかし、たとえそうであっても、イエスの示す道ですから、真理であると信じ受け入れ、歩んで行きたいと思います。
16節に「その道を歩み、魂に安らぎを得よ」とあります。この「歩む」は「歩み続ける」です。ある時には困難に耐え、ある時は孤独をこらえて歩き通す。「魂の安らぎを得よ」は「魂の安らぎに至る」です。「魂の安らぎ」は、誰にも、何ものにも奪われることのない平安を意味します。言い換えれば、人生の勝利を得るのです。
ローマの信徒への手紙8章37節に「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」とあります。人生の勝利と魂の安らぎに至る道を選ぶことができるようにと祈り続けたいと思います。