神の恵みの内に新しい年を迎えることができ感謝します。「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」という御言葉がありますが、一日一日生まれ変わるような新しさをもって、新しい年の歩みを始めたいと思います。
ヨシュア記はヨシュアがヨルダン川を渡り、カナンに入ろうとしている時のことが記されています。カナンに入るには、激流のヨルダン川を渡るなど、多難な問題がありました。ヨシュアは不安と恐れで、心を弱くしていました。恐れ戸惑うヨシュアに御言葉が臨んだといいます。ヨシュア記1章3節に「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」とあります。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう」となっていますが、本来は、「立ちはだかる者はいない、なかった」と事実の断言です。また、「強く、雄々しくあれ。うろたえてはならない。おののいてはならない」と命令形になっていますが、原文は、「わたしが、神が、強くする、雄々しくする、to make strong」です。また、「うろたえてはならない、おののいてはならない」は命令形ではなく、「うろたえない、おののかない」という事実の断言です。では、どうすれば「強くされ、雄々しくされる」のか、どうすれば「うろたえないで、おののかずにいれるか」。 それはヨシュアの終わりから見ると、明らかになります。ヨシュアは24章に記されているように、神の約束通り、ヨルダン川を渡り、カナンの地に入り、12部族のシケムの契約を成立させ、110歳で生涯を終えました。その意味では勝利を得た報われた人生でした。ヨシュア記はヨシュアの終りから、「今」を見ることを勧めていると思います。
浅野順一先生は「神を信じる者は終わりから生きる者のことである」と言っています。若いときには考えませんでしたが、今、いろいろなことを経験すると、終わり、それも神が勝利を与えてくださる『終わり』から、今を見ることが大事だと思うようになりました」と言っています。普段は「今、現在」を基点にして、現在から将来を考えます。今がこうだから、今が健康だから、あと何年は大丈夫だと言うように…、逆に歳を重ね身体も弱くなったから、あと何年…というように、「現在」を基準にして、将来の人生を考えます。しかし、聖書の考え方は違うと思います。今の自分から将来を考えるのではなくて、人生の最後から、今を考える。そういう在り方、生き方が大切ではないかというのです。
或る方は信仰の人生を「マラソン・ランナー」に喩えます。マラソン・ランナーは長い距離を走りますから、短距離の走者のように初めから猛スピードで走りません。ゴールから今の走り方を決めます。ゴールするには、「今」しなければならないこと、今どれくらいのスピードで走れば良いのか、水分補給が必要か・・・を考えて走ります。信仰の人生も同じところがあると思います。終わりから考える、終わりから人生を考えるということです。マラソン・ランナーはゴールがあるから、途中、どんなに苦しくても、辛くても、走ることができると言います。「ゴール」はギリシャ語で「テレオー」と言い、「終わる」という意味です。名詞は「テロス」と言い、「目的、目的の達成」という意味になります。つまり、勝敗を争う、優劣を競うのではなく、完走した喜び、感動、苦労の報酬という意味です。信仰の人生もマラソンと似たところがあります。人生には苦しいこと、不条理なことがあります。しかし、終わりの勝利・テロス、神に報われる喜びを信じ、先取りして、試練と不条理に打ち克つことができます。神の与える終末の勝利をしっかり見つめて、今を生きることが大切だというのです。
マタイ福音書12章33節以下の「木とその実」の譬えの中で、イエスは「裁きの日」、つまり、「すべて責任を問われる日がある」と言います。「責任を問う」と言われると、恐れを感じます。しかし、それは違います。「責任を問う」はギリシャ語で「アポディドミー」と言い、「決済する」と言う意味です。マタイ福音書25章14節以下の「タラントン」のたとえで、「天の国は、ある人が旅に出るときに、僕たちに、自分の財産を預けたようなものである。旅を終えて帰って来て、預けておいた財産を決算する。五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出した。主人は『忠実な僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』と神の称賛を得ているという「たとえ」です。「預けておいた財産を決算する」の「決算」は、ギリシャ語で「アポデドミィー」と言い。元来は「報われる」という意味です。厳しい試練に出会っても、神の恵みを信じ、試練に打ち勝っていく。その歩みは必ず報われる。それが裁きの日であるというのです。大事なことは「報われる終わりの時」を信じて、人生を形成することであるというのです。
テモテへの手紙Ⅱ4章8節に「世を去る時が近づきました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。かの日にそれをわたしに授けてくださいます。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれでも授けてくださいます」とあります。パウロは、神が義の冠を授けてくださるゴールを見据えて、今を歩いて行くと言っています。今日から、新しい年の歩みを始めますが、最後、終わり、つまり、最後の勝利・ゴールを見つめて、今の、現在の歩みをしていきましょう。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節に「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたはしっているはずです。」とあります。キリストに結びついているならば、一切の労苦が無駄にならない、報われると言います。その言葉を信じ、今年の歩みを始めたいと思います。