歴代誌上29章は、ソロモンが神殿建設を命じられましたが、ソロモンが若くて経験が乏しいので、ダビデが代わって神殿建設に携わったことが記されています。5節に「金は金製品のため、銀は銀製品のためであり、今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないかと」とあります。ダビデがイスラエル諸部族の司たちや千人隊長や百人隊長や高官たちに、自ら進んで、金、銀を献げて欲しいと呼び掛けています。
6節に「すると、家系の長たち、イスラエル諸部族の部族長たち、千人隊の長たち、それに王の執務に携わる高官たちは、自ら進んで、寄贈した」と。9節には「民は彼らが自ら進んでささげたことを喜んだ。彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである。ダビデ王も大いに喜んだ」とあります。この短い文章に「自ら進んで」という言葉が4回も用いられています。それはダビデが「自ら進んで」という信仰を最も本質的なことであると考えている事実を示しているのではないでしょうか。マラキ時代になると、献げ物が数量によって規定されます。つまり、収入の10分の1を献げることが律法で定められます。しかし、ダビデは律法で定めないで、「自ら進んで」献げることを最も大事にしました。ダビデにとっては献げる数量が問題ではなく、献げる動機、目的、信仰、心がより本質的な事柄であったからです。
14節に「このように寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう。わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」とあります。15節には「わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。わたしたちの神、主よ、わたしたちがあなたの聖なる御名のために神殿を築こうとして準備したこの大量のものは、すべて御手によるもの、すべてあなたのものです。」とあります。ダビデの祈りです。ダビデの祈りを見ると、神殿建築を通して、民の信仰と心とを整えようとしていることが分かります。信仰的土台を明確にしようとしているのです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ3章16節に「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。建物にとって土台が大事であるように、神の神殿であるあなたがたにとって、信仰的土台が大事であるというのです。イエスはルカ福音書6章46節以下の「家と土台」のたとえで、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて、家を建てた人」と「土台なしに家を建てた人」とに喩えて、人生は深く掘り下げ、岩のような堅固な土台の上に築かなければならないと言っています。ダビデ的に言い換えれば、人生の土台は「自ら進んで」という自発的、主体的な信仰と神の愛と恵みであるというのです。
パウロは、「教会はキリストの体である」と言います。体にはいろいろな器官があり、それらが一つになって、ひとりの人になります。教会も、いろいろな人が集められ一つになるというのです。そして、一つになる要因が「自ら進んで」という自発的、主体的な信仰であり、また、自発的な信仰がキリストの体である教会の土台であるというのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ9章7節に「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ち溢れるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」とあります。自ら進んで、自発的、主体的にする心と信仰が教会の土台だと言っています。
コリントの信徒への手紙Ⅰ4章7節に「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」とあります。パウロは、わたしたちの持つ物すべて、究極的には、わたしの所有物ではなく所与であると言っています。
マタイ福音書25章に「タラントンのたとえ」があります。ある主人が僕らに、タラントンを預けて旅に出かけ、しばらくして、帰宅し、預けたタラントンを決算するというたとえです。わたしたちの所有するすべてのものは勿論、命も人生もすべて神から一時預けられたものであると言います。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章10節には「神の恵みによって今日(こんにち)のわたしがあるのです」とあります。わたしたちは神の愛、恩寵、賜物で生きているのであって、自分の力ではなく神の恵みによって生かされているというのです。
詩人の谷川俊太郎さんと「野の花診療所」の徳永進先生とが交わした書簡が「詩と死をむすぶもの」と言う書名で出版されています。その中で「エリザベス・キュブラー・ロス」について記しています。ロスさんは「死の瞬間」という著書やスピチュアル・ケアーで著名な医師です。彼女は60幾つかで、脳卒中で倒れ半身不随になり、ヘルパーに助けられながらひとり暮らしをすることになりました。すると、自分の運命を呪うようになったというのです。「40年間も神に仕えてきて、引退したら脳卒中の発作が起き、何もできなくなり、歩くことさえできなくなった。だからわたしは烈火のごとく怒って、神をヒトラーと呼んでいる」と言っています。キュブラー・ロスの気持ちは理解できます。試練や苦しみや困難に出会い、あらゆるものを喪失すると、人生を恨み呪うのではないでしょうか。ロスさんも神に腹を立て、神に失望させられたと言います。記者が、ロスさんに「苦しむ患者を助けてきたのに、なぜ自分を救えないのですか?」と尋ねます。すると、ロスさんは「いい質問ね。人生では二つのことが大事なのよ、愛を与えることと、愛を受け入れることです。わたしは愛を受け入れるということに落第でした。自分を愛することなんてとんでもないと思っているから・・・」と答えています。つまり、在りのままのわたしが神に愛されている事実を受け入れ、信じることが信仰であるというのです。神の憐れみと愛を信じることが存在の土台であるというのです。神は何の取柄もないわたしの存在をいとおしく思い愛してくださる。その信仰的事実を信じ受け容れていく、その信仰的事実を土台とし、その土台上に人生を築いていくことが大事だと思います。