与えられたテキストは申命記30章15-20節です。15節に「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。」とあります。モーセの説教の一部で、29章1節の「モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。・・・」で始まっています。語っている場所はモアブの地です。モーセが荒れ野の旅を終え、ヨルダン川を渡り、カナンの地に入り、ホレブの山で神を愛し神に従う約束をし、神がイスラエルに豊かな恵みを与ると約束をしました。ホレブ契約と言います。
それから40年近く経っています。その40年は、イスラエルの信仰や生活に大きな変化をもたらしました。イスラエルは初めに交わした神との約束を忘れ、他の神々を礼拝するようになり、ヤーウェの神への信頼も希薄になっていました。カナンの地は乳と蜜の流れる地と言われるように豊かな地で、水も農作物も豊富で、天然資源にも恵まれ、大きな町々と豊かな土地と住まいを得、貯水槽もあり、ぶどう畑とオリーブ畑とを労せずに手に入れることができました。しかし、豊かになると、人間の力と知恵とを頼り誇るようになりました。荒れ野の中を支え生かしてくれた神の恵みと感謝を思い起こすこともなくなりました。ヤーウェの神との契約を捨て、ヤーウェの神以外のものを拝み頼りにするようになりました。ヤーウェの神との契約と約束をもう一度思い起こし、契約の更新の必要がありました。申命記の「申」は「繰り返す、更新する」という意味があり、「命」は「命令、契約」という意味です。つまり、申命記は契約の更新です。ヤーウエの神は、離れて行こうとするイスラエルの民に、命と幸いの道を改めて選ぶ決断を求めました。
エレミヤ書21章8節に「あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く」とあります。エルサレムはバビロン軍に包囲され、滅亡の寸前にありました。しかし、王も、民も、エルサレムの不敗と神殿の不倒信仰に立って、危機感を持っていませんでした。申命記の信仰を継承した預言者エレミヤは、イスラエルの民は命の道を選ばなければならないと、信仰的決断を迫りました。当時のイスラエルにはエルサレムと神殿は不滅であるという誤った信仰、迷信がありました。ゼデキヤ王は、「エルサレムから出て行き、バビロンに降伏することが生きる道、神が与える救いの道だ」という預言者の言葉を受け入れることができず、エルサレムに留まりました。エルサレムは破壊され、民は捕囚としてバビロンに連行されました。神に従い、命と幸いの道を選び、決断しなければならないのに、その選びと決断ができず、エルサレムの命を救うことができませんでした。エレミヤは神の信仰は命と幸いの道の選びと決断であると言います。モーセは「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。」と言います。「前に置く」は「選択、選ぶ」と言う意味です。意訳すると、「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いの選びをあなたに与える」となります。命と幸いを選ぶ決断をする、神の道を選ぶことが信仰であるというのです。
エステルはユダヤ人でしたが、ペルシャ王の王妃に抜擢されました。それに反対したハマンはユダヤ人撲滅運動を起こしました。ユダヤ人はエステルに「あなたは、王妃ですから、ユダヤ人のために王に憐れみを請い、ユダヤ人の救いを願い出なさい」と命じます。しかし、エステルは「王妃でも、許しがなく、王の前に出れば、殺されます。そのような危険なことはできません」と拒みました。すると、モルデカイは、「あなたは、この時のために、信仰生活をしてきたのではないか?同胞の救いのために、命の道を選ぶべきである」と迫りました。エステルはモルデカイの言葉に促されて、命の道を選ぶ決断をし、「わたしは王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」と立ち上がりました。エステルとは「暗闇に輝く星」という意味です。危機的な状況の中で、命の道の選び、決断した。その信仰的決断がエステルをして、暗闇に輝く星・エステルに成ったのです。
知人は若くして、五人の子どもを残して夫を亡くされました。遺された彼女は途方に暮れました。ある日、イザヤ書2章22節の「偶像はことごとく滅びる。人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に、どこに彼の値打ちがあるのか。」という御言葉に出会い、人に頼らず神に依り頼んで生きて行く道を選ばれました。五人の子どもを育てる苦労はありましたが、心にはいつも平安があったと言います。五人の子どもが立派に成長した時、あの時の信仰的決断が今日の恵みに至らせた。命と幸いの道の選びが人に真の命を与え、生きる力を与えるという事実に気づかされましたと言います。
エレミヤ書6章16節に「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂の安らぎを得よ。」とあります。「昔の道に問いかけてみよ」の「昔の道」は、イスラエルの民がエジプトを脱出し、荒れ野を労苦した旅のことを意味します。神とイスラエルの関係は他の何も入り込むことができない純粋な信頼関係で結ばれていました。その荒れ野の道を、つまり、純粋で熱情的な神との交わりを求めなさい。その信仰を持って荒れ野の道を歩むとき、魂の安らぎに到達するといいます。魂の安らぎとは、誰にも、何にも奪われることのない霊的な平安です。主イエスは「命に通じ、至る道はなんと狭く、細いことか」と言われました。その道は狭く、細く険しい道です。しかし、その歩みから与えられるものは魂しいの平安です。その真実な命と平安を求める道を選んでいきたいと思います。