2023年1月29日 「福音を宣べ伝える」 マタイ福音書4章12-16節

12節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」とあります。2章13節に「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』」とあります。この「エジプトに逃げる」は「退く」という意味です。原文は「イエスはヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに逃げた」となります。マタイ福音書はヘロデ・アンティパスから逃げイエスの姿を記しています。しかし、ヘロデ王を恐れて、弱々しく臆病で絶望と虚無に陥っているイエスを伝えているのではありません。14節に「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」。1章23節に「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」とあります。つまり、「退く、逃げる」は神の必然であり、人の救いのためにはどうしても通らネバナラナイ道、神の御旨の成就の道であるというのです。キリストの福音は一直線に前進して行くのではなく、「逃げる、退く」というような挫折や敗北に見える出来事を通し前進して行く、熊本の豊肥本線の「スイッチ・バック」のように、後ろに下がって、勢いを付けて、急な坂道を前進するように不思議な出来事を通して前進するというのです。使徒言行録は福音がエルサレムからギリシャ、ローマの世界に広がっていったのは、エルサレムで厳しい迫害に遭い、使徒や信者が散らされたからであると記しています。フィリピの信徒への手紙1章12節に「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進のために役立ったと知って欲しい」とあります。フィリピの教会の人々が、パウロが獄に捕らえられたことを知り、動揺し失望落胆しました。それを知ったパウロは投獄という不幸に見える出来事が、福音の前進に役立つから、積極的に受け入れて欲しいというのです。ボッンヘッファーは「神は最悪のものからさえも、善いことを生まれさせることができる。わたしはその神を信じる」と言っています。神は最悪を最善に変えられる方であるという信仰を確信しているです。

13節に「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」とあります。「ゼブルン、ナフタリ、カファルナウム」は、16節で「暗闇の地、死の陰の地」と言っているように、貧困、差別、搾取、虐殺と悲惨な歴史を持った町々です。この「住む」は暗闇を恐れて、立っていることができず座り込むという意味です。言い換えれば、「イエスはカファルナウムに来て座り込んでくださった」となります。イエスは暗黒に、死の陰に住む人々と、同じ苦しみを経験されるために、ご自身も暗黒の地、死の陰の地に座り込み、住んでくださったのです。

讃美歌312は「いつくしみ深き、友なるイエスは、われらの弱気を、知りて、憐れむ。悩み悲しみに、沈めるときも、祈りにこたえて、慰めたまわん。世の友われらを、捨て去るときも、祈りにこたえて、労りたまわん」と歌っています。作詞者はアイルランド人のジョーゼフ・スクリヴァンです。彼は25歳のとき、イエスのように故郷のタブリンを出て、カナダに渡り、学校の教師に身を献げました。プリマス・ブレズレンと言う、聖書の山上の説教を文字通り実行しようとする信仰的教派に属しました。必要であれば、身に付けている衣服を脱いで与え、困っている人を助け、貧しい人や病気の人のために働きました。しかし、余りに過激で、周りの人々からは理解されず、変人扱いされました。彼はそのために深い孤独に苦しみました。結婚式の直前に婚約者を突然の事故で失い。更に、母親が重病を患うという苦しみを経験しました。病身の母親に手紙に書きました。その手紙に添えた詩が、この讃美歌312です。イエスは、孤独に苦しむ者と共にいる真の友だ、誰よりも、何よりもわたしの慰め主だというのです。

マタイ福音書は、主イエスが福音宣教の第一声を発したのは「ガリラヤ」だと言い、「ガリラヤ」に神の救いの意味を見ています。「ガリラヤ」は、「異邦人のガリラヤ」と言われ、ヨハネ福音書7章52節には「彼らは答えて言った。『あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」と、1章46節には「ナザレから何か良い者が出るだろうか」とあります。ガリラヤは軽蔑され蔑視されていました。しかし、イエスは罪人、汚れた者の集まりと軽蔑を受けていたガリラヤの人々の中に敢えて入って行き、福音宣教をされたのです。

マルコ福音書2章17節に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と、10章45節には「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあります、イエスはわたしたちが主体的に愛し合い、赦し合うためにこの世に来てくださったというのです。

「ガリラヤ」はイエスが宣教の原点です。イエスが復活された後、現れたのも「ガリラヤ」です。イエスは弟子たちに「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしは会うことになる」(マタイ28:10)と命じました。その言葉通り弟子たちはガリラヤに行き、復活の主イエスと再会するのでした。そして、「すべて民に、福音を宣べ伝えよ」と宣教に派遣されました。その意味では、ガリラヤは信仰、宣教の原点です。彼らが迫害や妨害に遭い、苦しみ、迷い、絶望し、進むべき方向を見失うとき、立ち戻り、そこで主の心を聞き、主の慰めと励ましを受けるのでした。

イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えました。「天の国」とは、神御自身が支配する世界のことです。神の支配の世界が始まったと言うのです。「悔い改める」は、自分の思いや生きる向きを変え、心の向きを神に向けるという意味です。イザヤの言葉で言えば、「光に向かって生きよ」となります。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章6節に「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」とあります。パウロは光に向って造り変えたという神の声を聞くために信仰の原点に戻ります。そこではいつも「悔い改めよ。天の国は近づいた」というイエスの第一声を聴き、慰めと励ましを受け,立ち直り、福音の言葉を宣べ伝えるために派遣されて行きました。