与えられたテキストはルカ福音書6章1ー11節です。イエスがファリサイ派の激しい反撃を遮って、安息日に手の萎えた人をいやされた。イエスが安息日律法を破ったために、律法主義・ファリサイ派とイエスの間に激しい論争と紛争が起こったところです。6章11節に「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあります。「何とかしようと話し合った」とは、「イエスを殺そうと相談をし始めた」という意味です。イエスを生かしておくことはできないと言うのですから、ただ事ではありません。
6章1節に「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』と言った。」とあります。ファリサイ派の人々は「イエスの弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べた」ことを労働と見て、安息日にしてはならないと規定されている律法を破った律法違反であると言うのです。
3節に「イエスはお答えになった。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えパンを取って食べ,供の者たちにもあたえたではないか。』」とあります。イエスはサムエル記上21章のダビデの故事、つまり、ダビデがサウル王に追われ、空腹のため祭司アヒメレクの会堂に逃げ込みました。会堂には聖別された五つのパンが献げられてありました。安息日律法は、祭司のほかだれも神殿に献げたパンを食べることは禁じていました。ところが、ダビデは空腹に耐えかねて、律法の規定を破って、献げてあったパンを取って食べた。それだけでなく、共にいた者にも与え、食べさせたというのです。つまり、イエスは、安息日律法は絶対的ではない。状況によっては、超えることが許されるというのです。人が死を目の前に苦しんでいるとき、何もしないで、黙認していなければならないと言うのか。より本質的なことは律法の厳守ではなく、人間の命の厳守と救いではないだろうかと言うのです。イエスは人命の救いのためには安息日律法を超えることは許されるというのです。しかし、律法主義・ファリサイ派の人々は律法を厳格に、熱心に守っていました。その厳格さと熱心さとが律法主義・ファリサイ派の人々の尊敬と敬愛とを生み出していました。イスラエルの人々から尊敬された律法主義・ファリサイ派の人々は、麦畑の麦を摘んで空腹の満たすイエスと使徒たちを見逃し赦すことはできませんでした。
フィリピの信徒への手紙3章5節に「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」とあります。パウロはキリスト信仰者になる前は律法主義・ファリサイ派でした。パウロは律法主義・ファリサイ派の過去を振り返って、熱心さの点では教会の迫害者と言っています。「熱心」は「燃える、沸く、熱狂、過激」という意味です。燃え盛る炎が他のものを寄せ付けないように、自分が教えられ、信じていること以外のことは認めることができず、律法主義・ファリサイ派以外の人を否定し、自己を絶対化していた。律法主義・ファリサイ派の時代は、かたくなな心を改めようとしなかったと言っています。この「かたくな」は「足のかかとや指先にできるタコ、固くなって感覚が鈍ること」を意味します。パウロもファリサイ派・律法主義のときは、イエスの愛、恵み、寛容、忍耐に心を閉ざし、イエスの福音を信じる人を許すことができなかった。律法主義・ファリサイ派は人を熱くし、人の心を沸かせますが、その熱心さは人を赦すことができず、人を裁き、人の存在を否定すると言っています。
ローマの信徒への手紙7章24節に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」とあります。パウロは律法主義・ファリサイ派の時代は、深く自己内省することもなく、滅びと絶望の道を突き進んでいたと言っています。
写真家の桃井和馬さんは世界の戦争や紛争地を訪ね、戦争の残忍さ、愚かさを撮り続けていました。「世界各地の戦争や紛争を見ていると、その原因の一つに宗教の自己絶対化である。パウロが告白しているように、宗教は、絶えず悔い改めがないと、自分は絶対に正しいと信じさせ、異なる信仰を否定し、迫害するという過ちを犯す。宗教の負の面である」と言っています。桃井さんは「イスラム教の友人から、『本当の友人になるために一番正しいイスラム教に改宗してくださいね』と言われるそうです。自分の宗教が一番正しいという考えは危険である。自分の宗教や考えが一番正しいとすると、それ以外のものは、間違っている、劣っている、認められないとなります」と言います。桃井さんは「2001年9月11日、アルカイダのアメリカ同時多発テロ事件は、イスラムは一番正しいというイスラム教原理主義とキリスト教が一番正しいというキリスト教原理主義者の両者が、自己絶対化し、テロを引き起こした。宗教を考える時、『自分にとって』という前提が大切にされなければならない。自分にとってですから、『「他の人も、自分にとって』があります。それを認める謙遜さが必要です。宗教の真理は、至って主体的です」と言っています。イエスは、自分以外の考えや信仰を認められないような狭義な、かたくなな世界ではなく、違いや相違を認める余裕、寛容、自由な世界を持つことを教えられました。それはイエスの大事な教えの一つだと思います。
イエスは律法主義・ファリサイ派の人々がイエスの安息日規定破りを摘発しようと目を光らせている中で、手の不自由な人をいやされました。いやされた手は「右手だ」と言います。「右手」には意味があります。「右手」は生活の支え、存在の根拠を象徴しています。その「右手が萎えた」ということは、働き、生活の支え、存在の根拠を失ったことを意味します。石川啄木の歌の中に、「働けど働けど、なお我がくらし、楽にならざり、じっと手を見る」という歌があります。働いても、働いても報われない、働いても、何の喜びも見いだせないという苦悩と絶望を歌っています。6節に「また、他の安息日に、イエスは会堂に入って教えられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた」とあります。この右手の萎えた人は空虚と絶望に苦しめられていたと思います。絶望から救い出されたのは、フアリサイ派の律法ではありません。イエスの愛です。「一人の人がいて」の「いて」は「置く、置かれる」という意味です。彼は置かれた箱や物のような存在です。ファリサイ派や律法主義の人々には、イエスを訴える物にしか見えていません。しかし、イエスは見えない人を見出し、救いと希望を与えます。
8節に「イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った。」とあります。「立って、出なさい」は「信じる道を主体的に選びなさい」という意味です。10節に「そして、彼ら一同を見回して、その人に『手を伸ばしなさい。』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。」とあります。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあります。「良かった」は神の喜びと感動を意味します。神は全てを自由に、伸び伸びと、希望を持って生きるようにお造りになったと言うのです。「元どおりになった」は、神の肯定と喜びと感動を意味します。神は手のなえた人をいやし、希望を持って生きよと慰めてくださいます。