2023年10月15日 「イエスの希望と力」 ルカ9:7-20 ヨハネ16:31-33 

 テキストはイエスが五つのパンと二匹の魚で五千人を給食する物語です。この物語は勿論、ルカ福音書に、また、マルコ、マタイ、ヨハネ福音書にあります。それだけでもイエスの信仰の本質を伝えている物語であると思います。また、それぞれの福音書の信仰的特色や強調点がありますが、この物語はそれぞれ福音書の特色がよく表れていると思います。ルカ福音書9章7、8,9節に「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、『ヨハネが死者の中から生き返ったのだ』と言う人もいれば、『エリヤが現れたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。『ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。』。 そして、イエスに会ってみたいと思った。」とあります。 ルカ福音書の「五つパンと二匹の魚での五千人の給食の物語」は、イエスはいったい何者だ、イエスに会ってみたいというヘロデ王の疑問で始まっています。そして、18、19、20節に「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、『群衆に、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは答えた。『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』 ペトロが答えた。『神からのメシアです。』」とあります。つまり、ルカ福音書の「五つのパンと二匹の魚での五千人を給食する物語」は、イエスは何者か、会ってみたいというヘロデ王の「疑問と問い」で始まり、ペトロの「神からのメシアです」というメシア告白で終わっています。物語の核心はイエスをメシア・救い主と信じ告白することである。信仰の中心はイエスを救い主と信じ、告白することであるというのです。

16節に「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」とあります。「満腹する」は「心も体も恵みに満ち溢れる、聖霊に満ち溢れる、固く結びつく、生死を共にする」という意味があります。裂いたパンと魚を食べた人々は、神の恵みに満ち溢れた。また、ペトロをはじめ皆、救われたいという思いから、イエスに固く結びつき、つながったというのです。

10、11節には「使徒たちは帰って来て、自分たちが行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れてベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な多くの人々をいやしておられた。」とあります。イエスの後を追った多くの人々は、他人には分からないが、イエスは理解してくれる痛みや苦しみ抱えていた。勿論五つのパンと二匹の魚で給食に与った人々も魂の飢えを持ち、救いを必要とした人々であった。イエスは彼らの苦難と試練を理解し、霊的な飢えと渇きを満たしてくださったというのです。

五つのパンと二匹の魚で五千人を給食する物語に類似した物語は旧約聖書に幾つか記されています。出エジプト16章の「マナ」の物語もその一つです。イスラエルの人々がエジプトの苦役を逃れ、脱出し、シナイの荒れ野に入りました。入ると、食べるものに窮し、飢えと渇きに苦しみました。出エジプト16章3節に「イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』。5節に「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。』」とあります。イスラエルの人々は、神は我々を荒れ野で殺すために導き出した。エジプトには墓がないので、連れ出したのだと呟きます。そのとき、神は「マナ」を与えました。神は、イスラエルの危機を見落としません。窮地を知り、危機から救い出す方です。

列王記上17章を見ますと、エリヤは、アハブ王の厳しい迫害を受け、ヨルダン川の東側の荒れ野に追放され、食糧がなくなり、飢餓に苦しみました。そのとき、不思議な事ですが、数羽の烏がパンと肉を運んで来て、エリヤの危機と窮地を救ったというのです。神はエリヤを窮地から救い出したように、窮地に追い込まれたイスラエルの人々を救い出しました。窮地を救う神は五つのパンと二匹の魚で五千人を給食する場面でも働いています。

ルカ福音書9章17節に、「すべて人が食べて満腹した。そして、残ったパン屑を集めると十二籠もあった。」とあります。「満腹した」は、ギリシャ語では「コルタゾー」と言い、「コップから水があふれ出る」ことを意味します。コリントの信徒への手紙Ⅱ7章4節に「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」とあります。パウロは福音伝道のために、何度も苦難に遇い、鞭打ちの刑、飢え渇き、全てを奪われ、裸同然にさせられ、死の危機に直面し、苦しみの生涯で、安住するところ、時がありませんでした。しかし、神の憐れみと恵みに満ち、喜びに満ちあふれていたと言っています。その満ち溢れる喜びが、この五つのパンと二匹の魚で五千人が給食される物語に反映し、苦難を超え溢れる喜びの世界を示しています。

彫刻家・画家のイサム・ノグチの母親を描いた「レオニー」という映画があります。彼女は、明治時代の詩人の野口米次郎とニューヨークで二人の生活を始め、イサムを身ごもりました。彼女は身ごもったことを米次郎には知らせず、彼は何も知らないで、排日機運が高まりアメリカから、日本に帰国します。彼女はイサムを出産します。当時のアメリカは、排日感情が高まり、差別と偏見の中で、更に未婚の母のために苦労します。遂にアメリカにいることができず、幼いイサムを連れて、日本に渡って来ます。日本に着くと、米次郎には妻がいました。理不尽で、不条理な生活が続きます。明治時代にアメリカ人の女性が、日本で、一人で子育てをするのは、並大抵なことではありませんでした。困窮と苦難の連続です。しかし、人生を切り開いていくその姿には感動します。

ヨハネ福音書16章33節に「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とあります。映画監督の松井久子さんは「レオニーはこの世で苦難に出会い、負を経験することによって成長した。『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』という御言葉を支えにし、決して諦めないで、信仰から勇気と力を得た」と言っています。松井久子さんには認知症になった日本人の妻を、懸命に支え、愛し続けるアメリカ人の夫の姿を描いた「ユキエ」という映画があります。彼女はどのような困難、苦難の中に遇っても、溢れる喜び、希望を持って生きることができると言います。主イエスはその希望と力とを与えてくださいます。