与えられたテキストはエゼキエル書37章1-10節とコリントの信徒への手紙Ⅱ4章7-18節です。エゼキエル書37章はエゼキエルの黙示的預言の一つです。エゼキエルは主に連れ出され、谷の真ん中に導かれました。そこにはひどく痛んだ人の骨が散らばっていたといいます。エゼキエルは「この骨は誰の骨ですか」と主に尋ねます。すると、主は「それはあなたがただ。」と答えました。更に、エゼキエルが「この骨は生き返ることができますか」と訊ねます。すると、主はエゼキエル、これらの骨に向かって、『霊よ、吹き来たれ。生き返れ』と呼びかけよと、命じました。エゼキエルは命じられたとおり、ひどく枯れた骨に向かって、「霊よ、吹き来たれ。生きよ。」と呼びかけました。10節に「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」とあります。不思議な出来事ですが、バラバラに散らばっていたひどく枯れた骨がつながり、重なり合い、筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆った。それに神の霊と息を吹きかけると、生きた人間になったというのです。エゼキエルの霊的な預言者としての経験です。
2節に「見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。」とあります。この「甚だしく枯れていた」は、11節の「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と絶望しているバビロンの捕囚の人々を意味します。南ユダ王国は、バビロニアの侵略を受け、神殿と町々や家屋は破壊され、人々は殺されました。生き残った人々は捕虜としてバビロニアに連行されて行きました。捕囚の地バビロンでは苦難と重荷を負わされ、全く希望を見出せず、不条理な運命に翻弄されました。
しかし、不思議なことですが、絶望した人々が生き返って、自分の足で立つことができたというのです。神に出会い、死と絶望の存在から、新しい存在に変えられ、神の希望を与えられたのです。この世は矛盾し不条理で、心が折れる経験をします。「絶望してはいけない」と言われても、絶望しないでは生きられません。
イザヤ書7章2節には、「アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデ家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」とあります。ユダ南王国のアハズ王も人々も、アラムとエフライムの侵略の知らせを聞き、林の木々が風に大きく揺れ、倒れるように、激しく動揺したと言います、ヨアハズ王、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤ王も、祭司も、預言者も、誰もが存在の根底から揺り動かされる経験をしましました。預言者エゼキエルも同じような状況におかれ、どこにも希望の光を見出すことができず、絶望しました。ところが、不思議なことですが、主は生きて働いておられるという信仰経験をしました。神は、エゼキエルに絶望を超える神の希望がある。神の希望を見上げて。歩めと命じるのです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節に「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新しくされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」とあります。この「外なる人」の「外なる」は「精神に対する肉体、体」という意味です。「衰える」は「腐る、破滅する、駄目になる」という意味です。つまり、肉体、体は衰え、滅びるというのです。「内なる人」の「内」は「神の霊を受ける部分、神と繋がるところ」を意味します。外なる人は弱り、腐り、滅びますが、神とつながる内なる人、霊なる人は日々新たにされる。信仰の希望が与えられるというのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7節には「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」とあります。パウロは、わたしたちは土の器にすぎない存在であるが、その中に宝、並外れて偉大な神の力が納められていると言います。つまり、神の力と希望はパウロやパウロの置かれた環境からではなく、それらを超えた神から生まれたものである。だから、だれでも受けることができる。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。四方から苦しめられても、虚しい思いにならないで、絶望しないで生きることができるというのです。
高見順は神の希望を「われは草なり」という詩で、「われは草なり、伸びんとす。 伸びられるとき 伸びんとす。 伸びられぬ日は 伸びぬなり 伸びられる日は 伸びるなり。」と詠っています。自分の中に伸びようとする力がある。だが、時には伸びぬ日、スランプに陥る日がある。しかし、焦らないと言います。
「われは草なり 緑なり、全身すべて 緑なり。毎年変わらず 緑なり 緑のおのれに あきぬなり。われは草なり 緑なり 緑の深きを願うなり。」と詠っています。わたしたちはただの草にすぎない。しかし、そうだからと言って、腐らない。美しく咲く花と比べて、落ち込まない。豊かに実をつける樹と比べて、自分を卑下することのないように。ありのままの自分といつも新しく出会い、その自分をいとおしんでいくと言っています。「ああ 生きる日の美しき、ああ 生きる日の楽しさよ。われは草なり 生きんとす。 草のいのちを生きんとす。」と詠っています。高見順は世の中は、自分の思うままにならないことが多い。楽なことよりも、辛いことの方が多い。しかし、草である自分に対して優しく、草として生きる自分をいとおしく思う。他と比べるのではなく、わたしはわたし、人は人として。他人と同じにならなくてもいい。自分を受け入れていくと言います、神の絶対肯定を信じ、もし他人が皆、自分よりも輝いて見え、自分が惨めに思えたら、「外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます」という御言葉を信じ、御言葉に支えられ、慰められ、日々新しくされていきたいと思います。