2023年10月8日 「労苦は報われる」ルカ福音書8:4-15 詩編126:5,6

 アルベルト・カミュは若くしてノーベル文学賞を受賞しました。しかし、これからどんなに素晴らしい作品を書かれるかと期待されていましたが、突然の交通事故で亡くなりました。46歳のときです。彼は北アフリカのアルジェリアで生まれ、父親はフランス人の出稼ぎの労働者、母はマジョルカ出身で、文字を書いたり読んだりすることの出来ない無学なスペイン系の婦人でした。カミュは人間の人生を「シーシュポスの神話」になどって、不条理と言います。シーシュポスはギリシャ神話に出てきます。火を盗んだために、神の怒りに触れ、高い山の頂上に大きな石を運び上げる重労働の刑罰を課せられます。それもただ運び上げるのではなく、山頂に押し上げたとたん、大きな石は麓に転げ落ちていきます。すると彼は麓まで戻って、再び、大きな石を山頂まで、押し上げて行かなければなりません。押し上げると、また、転げ落ちる。また、押し上げて行く。押し上げると、また、転げ落ちる。また、押し上げる。また、転げ落ちる。シーシュポスの一生は意味のない労働のくり返しです。しかし、シーシュポスの偉大なところは、その不条理に毅然と戦うところです。「シーシュポスは、乱れぬ足取りで、終わりのない苦悩に向かって再び山を登って行く」と述べています。カミユは、シーシュポスは人生の不条理に屈しないで、勇気をもって果敢に戦っている。人間はそういう存在である。人間は強靭な精神を持って、毅然と生きる存在であると言うのです。

山本周五郎は「人間ほど尊く、美しく、清らかでたのもしいものはない」と、「赤ひげ」と言う作品で言っています。「おれは徒労に一生を懸けても悔いはない」とも言います。赤ひげは貧民のために幕府が開いた小石川養生所の所長です。身を粉にして貧民のために尽くしますが、誰にも顧みられず、正しい評価もされません。いつも粗末な扱いを受けています。そこに、幕府のお目見得医を目指して長崎に遊学し、西洋医学を修得して、江戸に帰って来た保本登という若い研修医が、赤ひげの小石川養生所に派遣されてきました。小石川養生所は貧しい貧民街の一画にあり、近くには遊郭街があり、親の借金のために身体を売る少女たちが働いています。赤ひげは悪い病気に罹り、苦しむ少女を遊郭から連れ出し治療します。しかし、少女は直ぐヤクザ組織に連れ戻されます。赤ひげは少女を取り返そうとしたために、組織から痛い目に合わせられます。組織は番所の役人とつながっていて、一介の医師ではどうにもなりません。赤ひげの善意は焼け石に水です。青年医師の保本登は、何のために生きているのか、虚しい思いに襲われ、絶望します。その時、赤ヒゲは、「俺の考えること、俺がしてきたことは徒労かも知れないが、俺は自分の一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている。徒労に一生をかけても悔いはない」と言います。どんなに働いても、報われない。良い結果が得られない、甲斐がない。それでも、赤ひげは短気になり、諦めたり、虚しく思ったり、失望したりしません。赤ひげは「俺は徒労に掛ける」と言って、貧民のために働き続けるのです。虚像の世界かも知れませんが、赤ひげは強靭な精神を持ち主です。呟かず、嘆かず、文句を言わず、報われることは少なくても、貧民のために尽くします。近寄りがたいほど強く、清貧で、立派です。

イエスは、ルカ福音書8章4-8節で、「種を蒔く人のたとえ」を語っています。5節に「ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。」とあります。6節に「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。」とあります。種をまく人は懸命に種を蒔いたが、実を結ぶ種はなかったと言います。8節に「また、ほかの種は良い土地に落ち,生え出て、百倍の実を結んだ。」とあります。この「結んだ」は過去形ですが、本来は、未来形で「結ぶ」です。つまり、将来実を結ぶことの約束性、確実性を強調するために、「結んだ」と過去形にしているのだとおもいます。更に「百倍の」という副詞をつけて、「実を結ぶ確実性」を強調しています。イエスは蒔かれた種が実を結ぶことは少ないが、最後に蒔かれた良い種は必ず実を結ぶと言います。イエスは種をまく人の労苦をよく知っています。蒔いても、蒔いても、実を結ばない事実を知っています。それだけに、神は蒔かれた種は必ず百倍の実を結ばせると約束しているというのです。

詩編126編5,6節に「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」とあります。労苦が、報われないで、虚しく終えることはないことを強調しています。しかし、現実は、赤ひげや保本登が、虚しい思いに苦しんだように、虚しく、徒労だと呟き、嘆かざるを得ないことばかりです。しかし、神の事実は違うというのです。蒔く種の多くが踏みにじられ、無駄になったとしても、最後の一粒は良い地に落ち、受け止められ、受け入れられる。現実は不条理で厳しいが、信仰の真理は必ず勝利をおさめるというのです。

イエスは福音宣教を始めると、直ぐに妨害に会い、町のそとに引きずり出され、崖から突き落とされそうになりました。安息日に右手の不自由な人を癒すと、ファリサイ派の人々と律法主義者は、イエスを殺す相談を始めます。イエスはいつも厳しい状況の下におかれていました。その中で、12弟子を選び、世に派遣しようとします。マタイ福音書10章16節では、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言う言葉をもって派遣しています。8章8節では、「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」という希望の言葉をもって派遣しています。イエスの「はなむけ、鼻向け」の言葉です。弟子たちに生きる根拠と生き甲斐を与えようとしているのです。

ルカ福音書8章2節に「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれたマリア、ヘロデの家令ヨハネ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」とあります。イエスは常に仕えた女弟子たちを励まし希望を与えています。弟子たちと女弟子たちの苦労は徒労に終わることはない、必ず報われると約束されていました。

カン・サンジュンさんは人間が生きていく時、支えになるのは、創造価値(何か新しいことを創造する)、体験価値(何かを遺していく)、態度価値(周囲に取る態度)の三つを上げています。その中でも最も本質的なことは「態度価値」であると言っています。人が不条理と苦難の中を毅然として、感謝と愛に満たされて生き抜く、その生きる態度が他人に希望を与え、同時に自分の生きる支えになるというのです。イエスは、あなたが蒔かれる種は必ず実を結ぶと約束され、究極的な希望と生きる根拠とを与えてくださいました。イエスの言葉を信じ受け入れていきたいと思います。