与えられたテキストはルカ福音書18章18-29節の「金持ちの議員」の物語です。ルカ福音書4章16節に、「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。』」とあります。ルカ福音書6章20節には「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」とあります。ルカ福音書の特色ですが、貧しい人々を愛し、思いやるイエスの姿や優しい言葉が記されています。逆に、18章24節には「イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。神の国に入るのは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」とあります。イエスの富める者に対するイエスの厳しい言葉と態度が記されています。「財産のある者」の「財産」は、ギリシャ語で「プリュートス」と言い、「物質的な冨、金、世の財産」を意味します。元来は「頼りがいのあるもの、人が頼りにするもの」という意味です。夏目漱石の「行人」と思いますが、「侮りがたきは金だ。地獄の沙汰も金次第。この世はすべてお金の力で左右される。」という言葉があります。お金・プリュートスは、人の心を惹きつけて離さない、サタン的力があるというのです。お金は人に一種の安心感を与えるため、人は見えない神より、見えるお金の方が力がると思い込み、神よりお金を頼りにするといいます。イエスはお金の力を十分に承知していますから、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。神の国に入るのは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言っています(24節)。つまり、お金の問題の本質は、お金の力を絶対化し、お金に依り頼む拝金主義、拝物主義、偶像崇拝です。
出エジプト記20章3節に「あなたには、わたしのほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」とあります。この「わたしをおいて」の「わたし」は全ての創造主であるヤッハウェの神です。「ほかに神が」の「神」は、ヤッハウェの神以外の全てのもの、つまり、お金、冨、世の物、世の力、権力の偶像化を意味します。「あってはならい」は「絶対化する、頼みとする」という意味です。つまり、ヤッハウェの神以外のものを究極的な拠りどころ、究極的頼りにしてはならないというのです。なぜなら、お金や冨や世の力、権力は人が造ったものですから、究極的な救いや真の支え、永遠の命を与えることはできません。旧約聖書には、イスラエルを崩壊させ、滅亡させたのは拝金主義、偶像礼拝、お金や権力の崇拝であったことが度々記されています。イスラエルを滅亡させたのは、ヤッハウェの神以外のものを絶対化した国家絶対主義、偶像礼拝、拝金主義、拝物主義であったことが記されています。
BC735年頃、南ユダ王国にアラム・エフライム連合軍が軍事同盟に加盟するようにエルサレムに迫りました。南ユダのアハズ王は動揺し、仇敵のアッシリアを頼って、援助を求め、神殿の宝、金銀を贈りました。イザヤ書7章4節に「彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」と、8節、9節に「アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。エフライムの頭はサマリア、サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない」とあります。預言者イザヤがアハズ王に伝えた神の言葉です。ヤッハウェの神を信じ、信頼し、究極的な拠り所としなければ、主体的に生きることはできない、国の独立はできないというのです。しかし、アハズ王はイザヤの預言、神の言葉を信じ受け入れることはできませんでした。その後、南ユダ王国はバビロン捕囚を経験します。
フィリピの信徒への手紙4章11~13節に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」とあります。心の拠り所を人や富に求めるのではなく、神に求めなさいというのです。わたしたちの究極的な拠りどころは目に見える冨や物ではなく、目に見えない神である。その信仰的事実を明確にしているのです。
ルカ福音書18章20-23節に、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 すると議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」とあります。この「すべて売り払って」の「売り払う」は「手を離す、手放す、持っているものから、頼りにしているものから手を離す」という意味です。イエスは、お金に心を惹きつけられている金持ちの議員に、「大丈夫だから、離してみなさい」と言われます。パウロもコリントの信徒への手紙Ⅰ4章7節で「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」と言って、勇気を持って、手放すことを勧めています。自分のものを手放すことは難しいです。しかし、逆説ですが、手ばなすことによって、イエスの究極的な支えと平安を知ることができるというのです。
柏木哲夫先生は「誰でも服を着ているように、社会的な衣を着ている。その社会的な衣を脱がなければならない時がある。その時、衣に覆われていた魂がむき出しになる。むき出しになった魂は恐れと不安に襲われる。だから、むき出しになった魂を覆うもの、霊的な衣が必要である。誰でも、最後は全部を手放さなければならない。そのときために、霊的な衣を備えなければならない。その事実を認識しているイエスは、むき出しのあなたの魂を覆い救おうとされている。」と述べています。
24節に「イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』 これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」とあります。イエスは悲しむ彼を見て、どんなに頑張っても、精進し、努力してもできないことがある。しかし、できない自分を責めるのではなく、できない自分を神に委ね、任せるというのです。重度の障害を負った詩人の星野富弘さんは、子どもの時、家の近くの渡瀬川で泳いだそうです。あるとき、急流に流され溺れたそうです。助かろうと流れに逆らって必死に泳いだ。すると、益々溺れてしまった。逆に、流れに身を任せると、足の着くところに導かれ、助かったそうです。言い換えれば、自分の力を頼り、頑張るのでなく、神に委ねたというのです。信仰も神を信じて、生と死を、人生を神に委ねる。そこには計り知れない神の救いと恵みがあります。