与えられたテキストはルカ福音書18章15-17節の「子供を祝福する」です。15、16節に、「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」とあります。この「叱る」は「激しい口調で叱り飛ばす、厳しく叱責する」という意味があります。なぜ弟子たちは激しく叱り飛ばしたのでしょうか? 原文は「までも」と言う副助詞が文頭にありまして、「乳飲み子を」連れて来たことが強調されています。弟子たちは、乳飲み子は祝福を受けることはできないという掟や戒めを固く信じていたのではないでしょうか。その律法と戒めを守らない人々に憤りをもった。その意味では、弟子たちはイエスの弟子でありますが、律法主義、功績主義、世俗主義を克服できなかったのではないでしょうか。
平衡記事のマルコ福音書10章13節には、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちは子供を連れて来た人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。』」とあります。ルカ福音書の「乳飲み子」を「子供」と言い換えています。口語訳聖書は「幼子」となっています。弟子たちは、「子供」でも、「幼子」でも、律法や戒めを守らない、悔い改めや善行のない、所謂、to do 、to workのない者を連れて来ることは、律法で禁止されていたのです。しかし、イエスは違います。13節に「『神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」とあります。確かに弟子たちが言うように、子供にはto do 、to work行い、働きはありません。しかし、to be存在、在りのままの存在はあります。しかし、弟子たちは働き、善行、功績のない子供たちはイエスの祝福は受けられいという律法主義、功績主義で、イエスの祝福は受けられないというのです。
ルカ福音書18章15,16節には、「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。』」とあります。この「しかし」は、ギリシャ語で「カイ」と言い、「ところが、いや、それに反して」という意味です。乳飲み子は、勿論、何の功績も働きもありません。ある、在りのままある、だけです。そのために弟子たちはイエスの祝福は受けられないと思いました。ところが、いや、それに反して、イエスはただ在るだけの乳飲み子を招いているのです。イエスは人の助けを受けなければ生きられない、最も無力な存在の乳飲み子を招かれたのです。イエスは、to do to workに先立って、to be存在があるというのです。
ビクトール・フランクルの「それでも人生にイエスと言う」の著書に一つのエピソードが記されていました。一人の有能な看護師が病気になられ、それも重症で、残された時間は短いと宣告されました。彼女は看護師を天職と思い、生き甲斐としていました。その働きができなくなります。彼女は生きていている意味がないと絶望します。そのとき、フランクルに出会いました。フランクルは「看護師としての役割は、あなたでなければならないことはありません。あなたの代わりは見つかります。しかし、考えて見てください。明日がないという窮地に立たされても、絶望しないで生きることは、あなたしかできないことです。そして、神の希望をもって生きるあなたは、絶望の淵に立たされている人々に、勇気と希望を与えるはずです。良く考えて、考えを逆転させてください。」と彼女を説得します。彼女はフランクルの言葉を受け入れ、イエスの愛を受け入れ、生涯を全うされました。イエスは勿論有能な者も招きます。しかし、それ以上に、無力な者を招かれます。to beしかない乳飲み子、幼子、無力な者を招かれる主イエスです。
17節に「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。この「子供」はギリシャ語で「パイディオン」と言い、口語訳では「幼子」と訳されています。言い換えれば、神の国を信じ受け入れる包容力、受容力を持つ子供を意味します。「何事も受け入れる幼子のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」となります。受け入れる、受容こそ信仰の本質であるというのです。イエスを信じ、信頼して、受容する人でなければ、神の国に入ることはできないというのです。
アルフォン・デーケンさんは「喪失の悲嘆から立ち直っていくのに、12段階のプロセスがある」と言います。「喪失の悲嘆から立ち直っていくためには、まず喪失の事実を積極的に受け入れる。それが立ち直りの原点である。神が在りのままのあなたを受け入れてくださっている。だから、あなたも在りのままありのままの自分, to beを受け入れ、自分を肯定して、生きていく。」と言います。或る方は「祈りは、何もできない自分を受け入れていくことが原点である。何も出来ない無力な自分だけど、神に受け入れられている事実を信じていく。その事実の受容こそ立ち直りの原点である」と言います。
日本青少年研究所が行った「中学生・高校生の生活と意識」という調査によると、「あなたは孤独ですか」という設問に「ハイ」と答えた人が、70%近い。今の子供たちは、心を開いて心を通わせる人がいないで、孤独と不安と虚無の中におかれているのではないかと言います。「わたしは人並みの能力がある」という設問に、「そう思う」と答える生徒は少ない。「自分はダメな人間だと思う」の設問には、「そう思う」と答える生徒は非常に多い。細かい分析が必要ですが、今日の問題からすれば、ありのままの自分が受け入れられている、ありのままの自分が肯定されているという原体験を経験することが少ないのではないかと言います。
イエスは在りのままのわたしを、to do、 to workのわたしではなく、to be在りのままのわたしを受け入れ、肯定してくださいます。イエス・キリストの福音の言葉を聴き、受け入れ、希望と勇気をもって生きていきたいと思います。