2023年11月5日「満ち溢れる神の恵み」創世記26:1-28 

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 与えられたテキストは創世記26章1-28節のイサク物語です。イサクは目立った働きも、業績もありません。彼の生涯の働きと業績は井戸堀です。それも、アブラハムが見つけて掘った井戸が、ペリシテ人に奪い取られ、ふさぎ埋められた。その埋められた古い井戸を掘り直したのがイサクの働きです。15節に「ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。」とあります。イサクの業績と言えば、ペリシテ人にふさぎ埋められたアブラハムの掘った古い井戸を掘り起こしことです。その意味では、イサクの業績は目立たない地味な働きです。しかし、目立ちませんが、井戸掘りは大切な働きでした。荒れ野では井戸は命の源である水の供給源で、井戸がなければ生きて行くことができません。イサクがふさぎ埋められた井戸を苦労して掘り起こすと、ペリシテ人がやって来て、「われわれの井戸だ」と言って、引き渡すことを求めました。すると、イサクは、考えられないことですが、苦労して掘った井戸なのにペリシテ人に、黙って譲り、その土地から出て行ったというのです。

16節に「アビメレクはイサクに言った。『あなたは我々に比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。』 イサクはそこを去ってゲラルの谷に天幕を張って住んだ。そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。」とあります。イサクの労苦が目に見えるようです。ペリシテ人が埋めふさいでしまった井戸を掘り直すと、ペリシテ人は「この井戸は我々のものだ」と返却を迫ります、するとイサクは争うことなく、黙って譲ったというのです。更に、もう一つ別の井戸を掘り当てると、それも、掘った後、ペリシテ人は譲渡するよう要求します。すると、イサクは争うことなく譲ったといいます。イサクはペリシテ人のアビメレクと争わないのです。イサクは気弱で、臆病で、弱虫で、頼りにならないように見えます。最期には、すべての井戸は奪われ、その地から追い出され、パレスチナの最南端のベエル・シェバに逃れて行きました。今日の言葉で言えば「落伍者、落ちこぼれ、敗北者」のイサクです。23節に「イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。その夜、主が現れて言われた」とあります。イサクはペリシテ人のアビメレクを恐れイスラエルの南端のベエル・シュバに逃れて行きました。その夜、主が現れたと言うのです。この「夜」はイサクの実存を表しています。イサクは不安と恐れで、絶望していました。東日本大震災で、家屋や家族を失い、海に向かって呆然自失して、立ち続けている人々のことを思い出します。イサクも茫然自失し、立ち尽くしていたのです。

24節に「その時に神はイサクに臨み、『恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしは貴方を祝福する』と言われた。」とあります。「あなたを祝福する」は、神が弱虫で臆病なイサクを「よし、OK」と肯定していることを意味します。賀来周一先生は「人は誰でも誰かに『OK、よし』という肯定を出してもらう必要がある」と言っています。神は弱虫で、憶病で、落ちこぼれているイサクを「よし、OK」と肯定しているのです。

1節に「アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。その時、主がイサクに現れて言われた。『エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓を成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。』」とあります。ペリシテ人は鉄の武器を持つ強力な民族でした。後のモーセ時代のことですが、エジプトを脱出したとき、海岸の道を選択しないで、遠回りですが、シナイの荒れ野の道を選択しました。強力な武器を持つペリシテ人を恐れたからです。イサクもペリシテ人の王アビメレクと会見することになりました。臆病で、気の弱いイサクはペリシテ人の王アビメレクを恐れ震えていました。そのとき、神がイサクに現れ、「エジプトに下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓を成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える」と約束しました。「エジプト」は世の権力者の象徴です。「下る」とは、「寄り頼む」という意味です。つまり、力のエジプトを信頼しては駄目というのです。世の権力者や人間や人間の造ったものを依り頼まないで、神を信じ、神を信頼して生きなさいと励ましているのです。イサクの偉大なところですが、弱虫で臆病でしたが、神を信じて、エジプトに助けを求めることはしませんでした。神に希望を見出したのです。そこがイサクらしいところです。山本周五郎の言葉に「人は何をしたのではなく、何をしようとしたかである」という言葉があります。神は人の志を見てくださいます。神は弱虫で、臆病で、いつも負けて、譲ってしまうイサクを「よし」と肯定してくださっている事実を、イサクは信じ、受け容れることができたのです。

シシリ島のカプチン会修道院のカタコンベ地下納骨堂には、立ったままのミイラが沢山並んでいるそうです。そのミイラは、ローマ時代に激しい迫害に会い、人生の途上で召された殉教者です。生き遺された人々が、殉教した人々は神から「よし」と肯定されたいという強い思いがあったことを知り、立ったままの姿勢で葬ったと言われます。殉教された人々の人生は、「良くやった忠実な僕よ」と神に肯定されている人生であると神を賛美しているというのです。

26節に、ペリシテ人のアビメレク王が参謀のアフザトと軍の隊長ピコルを連れてイサクに会いに来たことが記されています。イサクは「あなたたちはわたしを憎んで追いだしたのに、どうしてここに来たのですか」と尋ねました。すると、アビメレクは「主があなたと共におられることが良く分かりました。あなたは確かに、主に祝福された方です」と応えています。驚いたことに、ペリシテ人の王アビメレクが変えられているのです。イサクの地味な、目立つことない働きと忍耐と労苦が報われているのです。

ルカ福音書5章にイエスの弟子たちの召命の記事があります。ペトロたちは漁に出て、何度も、何度も、網を打ちました。しかし、その夜は雑魚一匹も獲れませんでした。失望落胆して帰って来ました。そこにイエスが現れ「もう一度舟を出しなさい」と命じます。ペトロは、「わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。網を打っても、無駄です。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って、網を投げると、網が破れそうになるほどおびただしい魚が獲れたといいます。引き上げようとしたら、舟が沈みそうになりました。この物語は漁の話ではなく、わたしたちの人生の話です。イエスを信じて生きて行けば、雑魚一匹も取れない、何のために生きてきたのか解らないという虚しい思いにはさせない。人生の途中にはいろいろなことがありますが、神は喜び溢れる時が用意している。最後は、喜びに満たされるというのです。使徒たちは仲間の舟を呼んで、重い網を一緒に上げました。そういう実感が満ち溢れる信仰を育てていきましょう。希望をもって生きていきたいと思います。