主イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマス礼拝です。讃美歌Ⅰの101には、「いずこの家にも、めでたき音ずれ、伝えうるためとて、天よりくだりぬ」「よくこそましけれ、貴きイエス君、いかなる物もて、君をばもてなさん。」とあります。ルターの作詞です。「いずこの家にも」が強調され、「どの家にも、誰にも」、めでたき音ずれを伝えるために、天よりくだって来たと詠っています。また、ルター作詞、作曲の讃美歌21の246は、「天のかなたから、はるばる来ました,うれしい知らせを 伝えるためです」とあります。天のかなたから、一人も漏れなく、うれしい知らせを伝えるために来たと言っています。
マタイ福音書11章28節には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」とあります。イエスは、「だれでもわたしのもとに来なさい。」と言って、差別も,区別もなく、誰でも等しく招いておられます。ヨハネ福音書3章16節には「神は、その独り子を賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。クリスマスは、誰一人滅びることなく、永遠の命を得るために、神がキリスト・イエスを世に贈ってくださった日です、黙示録3章20節には「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。」とあります。 讃美歌21の246の4節は「ようこそイエスさま、お入りください。わたしのまずしい、心の部屋にも」と、子供が歌います。イエスは、子供も大人も区別なく、心の扉を叩いています。イエスを心に迎えて欲しいというのです。クリスマスは子供も大人も、イエスを心の内に迎え入れる。神がその信仰的事実を悦んでくださる日です。
ルカ福音書のクリスマス物語には、2章8-11節に「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」とあります。「主の天使が近づき」の「近づき」は、ギリシャ語で「エステミー」と言い、「上から手を差し伸ばす」という意味です。つまり、クリスマスは神が天から御手を差し伸ばし、救いを与えてくれる出来事が起こった日です。創世記28章のヤコブ物語にも、神が御手を差し伸ばす出来事が記されています。弟ヤコブは兄エソウをだまし、長子の特権を奪い取ります。エソウは激しく怒り、ヤコブを憎みました。ヤコブは父イサクと母リベカの元にいることができなくなり、伯父のラバンを頼ってハランへ逃れてか行きました。その途中、野宿をしました。そのとき、ヤコブは神の御使いたちが、天から地に向かって伸びている梯子を上ったり下ったりしている夢をみました。その「天使が上ったり下ったり」の「下る」が「手を差し伸ばす」という意味です。天使がヤコブに御手を差し伸ばしたというのです。ヤコブはエソウを騙し、長子の権利を奪ったために父イサクの元から一人逃れて来ました。ヤコブは犯した罪を悔い、孤独に打ちひしがれていました。ヤコブ犯した罪を悔い、神を受け入れ、エソウに赦しを乞いました。そのとき、神は孤独に苦しむヤコブに御手を差し伸べたのです。それがヤコブのクリスマスです。
イザヤ書63章19節に「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」とあります。イザヤはイスラエルの人々のために、神の救いの御手を祈っています。神は祈りに応えて、天を裂いて、イスラエルの人々の上に赦しの手を差し伸べました。それがイザヤのクリスマスです。
マルコ福音書1章30、31節に「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスはそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」とあります。この「手を取って」は「手を差し伸ばして」という意味です。主イエスが、シモンのしゅうとめに手を差し伸ばすと、熱が下がり、立ち上がったといいます。それがシモンのしゅうとめのクリスマスです。
ルカ福音書7章13-15節には「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして近づいて棺に手を触れると、担いでいる人たちは立ち止った。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人はおきあがって、ものを言いはじめた。」とあります。この「手を触れる」は「手を差し伸ばす」という意味です。ナインのやもめが一人息子を亡くし、葬式を出しましたが、悲しみの余り、立っていることができず、親類の者に両脇を抱えられ、息子の棺の後をついていきました。イエスは、彼女に目を留め、「もう泣かなくてもよい」と声をかけ、棺に近寄り、手を差し伸ばし、「若者よ、起きなさい」と言いました。すると、若者は起き上がり、話し始めたというのです。それがナインのやもめにとってのクリスマスです。
10節に「恐れるな。わたしは、民全体に与える大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」とあります。この「告げる」は「大きな喜ばしき訪れを告げる」という意味です。「大きな喜び、重要な喜び、言葉を遙かに超えた喜び」を意味します、馬小屋の飼い葉桶に寝かされているイエスの誕生は、言葉では表現できない喜び、福音です。フィリピの信徒への手紙3章8節に「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」とあります。「余りのすばらしさ」は「遥かにそびえている、想像を絶する、絶大な価値」という意味です。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章8節に「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」とあります。そのような想像を絶する、絶大な価値力を与えるのがクリスマスです。
日野原重明先生は「主の降誕は、大きな喜びであり、人に新しいことを始めさせ、再出発させる力を与える」と言っています。イエスが手を差し伸ばしてくださることを信じることによって、新しく生まれ変られ、新しい歩みを始めることができます。イエスは、死の谷を歩むような日々であっても、救いの光を注いでくださいます。挫折しても、イエスは手を差し伸べ、立ち上がらせて、共に歩んでくださいます。イエスは絶望に打ち克つ力を与えてくださいます。それがクリスマスです。クリスマスは、外なる人は衰えても、内なる人は日々新しくされる日です。キリストによって新しく生まれ変えられましょう。