2023年12月31日 「別の道を通って」マタイ福音書2:1-12 フィリピ3:12―14

  与えられたテキストはマタイ福音書2章1―12節です。占星術の学者たちが東の方で、救い主の誕生を示す星を見つけ、長い旅に出ました。その途中試練や危機に出会い、星を見失うことがありました。しかし、なんとか星に導かれ、エルサレムにたどり着くことがきました。ところが、ヘロデ王が再び彼らを捕らえようとし、危機が迫ってきました。しかし、このときも、不思議な導きで、危機から逃れることができました。それだけでなく、ヘロデ王の言葉から、幼子が生まれるのはエルサレムではなく、ベツレヘムであることが分りました。彼らは、今度は、エルサレムではなく、ベツレヘムを目指して旅を続けました。すると、見失っていた星が再び現れ、彼らを幼子のところに導き、マリアと共にいる幼子イエスに会うことができました。彼らは幼子イエスにひれ伏して拝み、贈り物の黄金、乳香、没薬を捧げ、帰って行ったと言います。マタイ福音書は、その後の彼らについては一言も触れていません。ただ彼らが幼子を拝んだ事実だけを記しています。イエスを拝むことだけが大切で、本質的なことである、他のことは些細なことであるという考えです。彼らの長い苦難の旅と人生は、幼子イエスを拝するためであったというのです。

マタイ福音書2章1節に「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」とあります。9節には、「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」とあります。マタイ福音書は「占星術の学者たちが東の方から、、、。」「わたしたちは東方で、、、、」、「東方」が強調されています。  

聖書では、「東方」は地理的な意味でなく、象徴的、聖書的な深い意味をもっています。アダムとエバが罪を犯し、追放されたのは「エデンの東」です。カインがアベルを殺害し、追放されたのは「エデンの東」です。天まで届くバベルの塔の町を建て、有名になろうとしたのは「東の方」から移動してきた人々です。ヨナが神に不信を抱き、ニネベ行きを拒み、乗り込んだ船は「東行き」でした。つまり、「東の方、東方」は神に背き、罪を犯した者が追放された世界を意味します。人間の罪と欲望とが支配する世界、目に見える物だけを頼りにした拝金、拝物主義の世界です。占星術の学者たちも、偶像礼拝者で、世俗社会に浸り、霊的に満たされないで、幼子イエスを求めたのではないでしょうか。彼らは偶像礼拝では満たされず、霊的世界と新しい王を求めて、東方の世俗社会のしがらみを断ち切って、旅立ち、長い旅をされたのではないでしょうか。

11節に「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とあります。占星術の学者として、彼らは長年求めていた自己変革が、幼子イエスに出会い、真実な神を礼拝することによって実現しました。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。彼らはなすべきことをなし終えた人物として退場します。その後の彼らは分かりません。マタイ福音書は彼らのその後については記す必要がないという考えでした。ただ、ただ一つの事、イエスを拝することが人生の本質であるという信仰でした。

フィリピの信徒への手紙3章12節に「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とか捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべき事はただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。パウロはキリストに捕らえられること、ただ一事、ただ一つのことを目標として求めて来た、求めていると言っています。占星術の学者たちもイエスに出会い、変革させられました。その後の彼らの人生は、ただ一事、イエスを拝み、イエスに献げる人生と生涯を送って来たと思います。

ルカ福音書10章に「マルタとマリアの物語」があります。イエスはマルタとマリアの姉妹を訪ねました。マルタは、イエスをもてなすことが一番大事だと思い、せわしく立ち働いていました。マリアはイエスの足元に座って、イエスの話に聞き入っていました。マルタは、「主よ、マリアはわたしだけにもてなしをさせています。何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしょってください」とイエスに訴えました。すると、イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言っています。この「必要なことはただ一つ」の「必要なこと」とは、「選択する、決断する」という意味です。言い換えれば、ただ一つの本質的な事柄のために、非本質な事柄は捨てると言う決断、選択をして良いというのです。口語訳は「無くてならないものは多くない、いや一つである」となっていましいます。「いや一つである」の元来の意味は「統一する、集中する」です。つまり、集中することはただ一つであるというのです。

イエスは、マルタに「多くのことに思い悩み、心を乱している」と言います。この「思い悩む」は「分裂する、思い患う」という意味です。「心を乱し」は「心騒がす、混乱する」という意味です。イエスは、マルタに、「あなたは思い煩い、心騒がし、心を乱している。ただ一つのことに集中しなさい」と言うのです。神谷美恵子は著書「生き甲斐について」の中で、「生き甲斐は心のエネルギーを一つに集中することによって生まれる」と言います。「心が分散し、分裂すると、生きる力、生きるエネルギーを失う。心が一点に集中したとき、生き甲斐を持つことができる」と言います。イエスは「必要なものはただ一つ」と言います。イエスの言われる「ただ一つ」は何か?「イエスの話に聞き入る」ことです。この「話」はギリシャ語で、「ロゴス」と言い、「言葉、イエス自身のこと」を意味します。「主イエスの言葉に聞き入る」です。ローマの信徒への手紙10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」とあります。「始まる」は「本来にする、本質にする」という意味です。パウロは、信仰は神の言葉を「聞く」ことを本質にする。神の言葉を聞くことによって生き甲斐が与えられると言います。

ヴィクター・フランクルは「信仰は神の恵みを期待するのではなく、神が期待している恵みを問い、それに応えていくことである。それを人生のコペルニクス的転回である。ユダヤ人の強制収容所で生き延びた者は、心のコペルニクスの転回をした者である」と言います。福音書的に言えば「幼子イエスを拝むことができた者」です。「拝む」は、神を神とすることです。自分が中心ではなく、神を中心に、神を第一にすることです。神の御旨を尋ね、存在をもって答えていくことです。マタイ福音書2章12節に「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」とります。この「道・ホドス」は、漢字では「首」に辶篇です。首は悪霊を追い払い、清められることを意味します。「通って」は「従って、によって」という意味です。つまり、神の霊によって、悪霊を追い払い、浄められた道に従って帰って行ったというのです。「わたしは世の光である。わたしに聞く者は、闇のうちを歩くことなく、命の光を持って歩む。」とあります。別の道、つまり。古い人から、新しい人に生まれ変えられ、神の真理に従って、歩んで行ったというのです。