ヨブ記は一つの戯曲ですが、人生の真実・信仰の真理を伝えています。1章はプロローグ・前置きで主題を掲示しています。神の前に神の使いたちとサタンが集まり、会議を行いました。そのとき、神はサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上でヨブほど立派な者はいない。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と、信仰的にも、道徳的にも立派だと誉めています。更に、ヨブは莫大な財産を有し、東の国一の富豪です。更に10人の子供に囲まれ、家庭的にも恵まれていました。神はこの地上にヨブほど敬虔で、信仰深く、立派な人はいないと言います。
すると、皮肉家で、偽悪家で、人間の弱点や欠陥、失敗を摘発し、暴露することを任務とするサタンは「ヨブが、利益のないのに神を敬うでしょうか。そんなことはあるはずがありません。神がヨブに莫大な財産を与え、全財産を保護しているから、神を信じ従っているのです。ヨブは利益があるから信じるのです。究極的には神のことを思ってはいません。自己の欲求や願望を満たしてくれるから、信仰しているだけです。ヨブが神を信頼し信じ従うのは、それに見合う報償と利益があるからです」と反論します。ヨブは利益がなければ、信仰しないというのです。それを明らかにするためにヨブから財産を取り上げてみてください。必ずあなたに向かって呪いの言葉を吐くでしょうと言います。この「呪う」は「決別する、離れる」という意味です。ヨブは神に向かって反抗し、神を捨て、神から離れていくというのです。
神は、それではヨブのものを一切奪い、サタンの思うようにしてみるがよい。ただし彼の身体には、手を出すなと命じました。ヨブが試練・苦難に遭うことを許したのです。たちまち試練・苦難がヨブを襲いました。シェバ人が襲い、牛やロバを略奪し、僕たちを皆殺しにしました。次に、カルデア人が襲い、ラクダを略奪し、僕たちを皆殺しにしました。苦難はそれで終わりません。10人の愛する子どもたちが試練・苦難に襲われます。子どもたちが長男の誕生祝いで集まっていた家が、暴風雨で倒れ、家屋の下敷になって圧死しました。ヨブは全財産と子供を失ってしまいました。
しかし、ヨブはサタンが決めつけているように、神を呪ったり、捨てたりしません。21節に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」とありますように、ヨブは苦難と試練に遭っても、神を非難することなく、罪を犯さなかったと言います。ヨブは神を呪うこと、神から離れることはありません。神を讃えています。「神を非難することなく」の「非難する」は「不愉快な、深さのない」という意味です。ヨブは神に対して、深みのない、不愉快な言葉を一切言わなかった。ヨブは罪を犯さなかったというのです。
サタンは利益がなければ、神を信じる人はいないと言うが、利益がなくても、神を信じ、神に従い、神を讃えている人がいるという事実を証し、真実な信仰に生きている人がいる事実を示しています。「このような時にも」とあります。「このような時」は、「重大な時、決断の時」を意味し、「神を信じ、従うか。神を捨てるか。」の選びの時を意味します。その時、ヨブは神を信じ、従うことを選びました。ヨブ記はその選び、決断が信仰だと言うのです。
賀来周一先生は「わたしたちの人生に、大きな影響を与える要因として四つ、つまり、生まれつきの素質、生まれ育った環境、遭遇した出来事、そして、生きるための決断」をあげています。その中でも「決断(選び・信仰)」が一番重要だと言われます。「生まれ持った素質、育って環境、出会った出来事の三つの要因は、過去のことであり、変えることが出来ません。それだけにどのように受け入れ、決断するかによって、その人生が決まる」と言うのです。例えば、生まれつきだから、仕方がない、このようなことが起こらなかったら、と否定的に取るなら、諦めとなり、後ろ向きに生きることになる。逆に、生まれつきだけれど、にもかかわらず、と肯定的に受け入れ、決断するならば、前に向かって歩み出すことができる。その意味で決断が大事であるというのです。
サタンは「利益もないのに神を敬うでしょうか」と言います。この「利益」は「目に見える地上的な利益」を意味します。つまり、人は目に見える利益があれば、神を敬い信じるというのです。しかし、聖書は、勿論、地上的なものは大事だが、決定的、究極的なものではないと言います。
フィリピの信徒への手紙3章8節に「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりにすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」とあります。パウロはファリサイ派のエリートとして生まれたこと、エルサレムの最高学府のガマリエル門下生として学んだ学歴、ユダヤ教の指導者として得た高い地位と権力、それら一切を損失と見なすようになったというのです。「損失」は「色あせる、色がさめる、価値を失う」という意味です。パウロは地上的なものでは心は満たされなかった。人間の心は地上的なものだけでは満たされないというのです。もしサタンのように、地上だけのもので、心が満たされるならば、アシジのフランチェスコのような人やマザー・テレサのような人は現れなかったと思います。フランチェスコはイタリアのアッシジの裕福な織物商の家に生まれ、この地上で欲しいものは何でも手に入りました。物質的には何不自由のない生活でした。しかし、フランチェスコの心は満たされませんでした。満たされない思いで、心の彷徨を経験します。そして、遂に、主イエスと出会い、満たされ、人生を神の意志に従って生きました。もし、地上的なもので満たされていたなら、フランチェスコのような喜びに満ちた人生はなかったと思います。聖書の約束するものは、地上的なものを超えたところにあります。主イエスは十字架の孤独な道を歩むことによって、その事実を明らかにしてくださいました。地上の何物にも代えることのできない霊的な恵みと光に満ち溢れた道があるといいます。そして、それらを与えてくださいます。今、この時、キリストの十字架を見上げて歩んで行きたいと思います。