2023年3月12日 「イエスの絶対肯定」 ヨハネ福音書12:1-8

テキストはヨハネ福音書12章1-8節の「イエスに純粋で非常に高価なナルドの香油が注がれる」ところです。並行記事のマルコ福音書とマタイ福音書は「香油が注がれた場所」をライ病人のシモンの家にしています。ヨハネ福音書は夕食を主催した者の家で、特定していません。食事に招かれた者は、マタイ、マルコ福音書ではその名は記されていません。香油を注いだ人も「一人の女が」と記されているだけです。しかし、ヨハネ福音書は、マルタ、マリア、ラザロという三人の名を記し、香油を注いだのはマリアと記し、また、その三人がラザロの埋葬されていた墓から甦えさせられた救いの出来事に出合ったことが記されています。

2節に「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。」とあります。この「給仕する」はギリシャ語で「ディアコイネー」と言い、「仕える」と言う意味です。名詞は「仕える者、奉仕者、僕」です。マルコ福音書10章43節に、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。わたしは仕えられるためではなく仕えるために来た」とあります。「ディアコイネー・仕える」が、世の本当の命と真理は「仕えられるのではなく、仕えること」にある」というイエスの信仰の本質的な教えを言い表すために用いられています。ここで、この大事な言葉がマルタに用いられています。

イエスは以前マルタの家を訪ねたことがあります。マルタには妹のマリアがありました。その時マルタは、イエスの接待に心を使って忙しく働いていました。しかし、マリアはイエスの傍に座って、何もしないで、ただイエスの話しを聞いていました。マルタはマリアに不満を持ち、「マリアに手伝うように言ってください」とイエスに訴えました。マルタには、自分は一所懸命に働いているのに、マリアは何もしない。自分は善いこと、正しいことをしている。アリアは許せないという思い上がりがありました。マルタは自己絶対化し、マリアを裁きました。ルカ福音書10章41節に「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』」とあります。これらの物語は、自己を絶対化するマルタが変革されていく姿を描いています。

マルタは仕えることに本当の命と意味があることを知るのでした。勿論、マルタは命令され強制されて、そうなったのではありません。イエスに出会い、悔い改め変革させられたのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章10節に、「神の恵みによって今日(こんにち)のわたしがあるのです」とあります。パウロは神に生かされている信仰があって、初めて生きることができると言います。マルタも真実に生きることは「仕えられる」のではなく、「仕える」ことにあるということを知るのでした。

3節に「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラを持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。このマリアの振る舞いは人々から非難されました。お金に換えて、貧しい人たちに施すべきである、イエス一人に使うのは不平等である、愛と正義とに欠けていると批判しました。それだけではありません。香油はラザロの葬り時の残りのものである。死者の葬りに使った残り物を使うことは許されない。また、マリアが髪の毛をほどくのはもっとも恥ずかしい、ふしだらな振る舞いだと憤慨しました。 しかし、マリアはそれらの批判を恐れることなく、イエスのためにと信じて、非常に高価なナルドの香油をイエスに注ぎました。マリアのイエスに対する確信、一途さ、誠実さが信仰であるというのです。

ヨハネ福音書9章に生まれつき目の見えない人がイエスに目を開かれた記事があります。彼はユダヤ人の議会に呼び出され、証言を求められました。もし、イエスが癒し主だと証言すれば、教会から追放という厳しい罰が課せられます。しかし、彼は大胆に「わたしは主イエスに癒されました。」と証言しました。「エゴー・エイミー・わたしはある。わたしはわたしである。」という神の信仰に従ったのです。だれが中傷し、批判を加えても、わたしはわたしである。わたしは主を信じて生きるというのです。

7節に、「イエスは言われた。『この人のするままにしておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。』」とあります。「するままにしておく」は「許す、肯定する、是認する」と言う意味です。イエスはファリサイ派の人々が激怒したマリアの振舞いを肯定しているのです。周りの人々から避難、中傷されたマリアを「良し」と肯定しているのです。イエスは人が何と言おうと、「わたしはあなたを『良し』と肯定するというのです。このイエスの肯定が、マリアをマリアらしく生かしました。イエスはだれがなんと批判しようと、マリアはマリアであると言うのです。そのイエスの絶対肯定を信じた信仰がマリアの存在の原点です。

ラザロはイエスから甦えらされました後、食事に招かれています。しかし、ラザロは何の働きもしないし、一言も語りません。沈黙しています。イエスによって蘇らされたのですから、その喜びを証しするはずです。しかし、彼は黙して語りません。このラザロの沈黙は、何かを語なければ、何かをしなければという考えを否定しているのではないでしょうか。語らないという仕方で、信仰の証をしているのではないでしょうか。勿論語ること、何かを献げることは大事です。しかし、ラザロは語りません。イエスと共にいることだけで十分な証しであるというのです。

フロムは「人が存在し、意味があるのは、to do・何事かをする、役立つからではない。to be・あなたがそこにいるだけである」と言います。浅野順一牧師は、「年とともに身体も弱わり、奉仕できなくなってきた。申し訳がない。さびしい、孤独だという訴えに、礼拝に共に連なること、ただ礼拝に出席し御言葉の恵みに与る。これ以上の奉仕はない。わたしはあなたがそこに座っておられることで、語る勇気が与えられている」と述べています。主の恵みに連なることだけで十分な証しである。イエスと共にある喜びを喜びとする、それだけで十分だと言います。イエスの言葉に感謝して受け入れていきたいと思います。