2023年4月2日「主イエスの苦難と死」 マタイ福音書26:36-46 

主イエスは最後の晩餐の後、ゲッセマネというエルサレムの東側にあった小高い丘に、弟子たちを連れて行きました。37節に「ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』」とあります。この「悲しみもだえはじめる」の「悲しみ」は、「心痛、心を痛める、心が破れる」と言う意味です。「もだえる」は、「故郷を離れる」という意味で、「不安、孤独、孤独の苦るしみ」を意味します。「死ぬばかり」は、「命が死の中に落ち込んでいく」という意味で、「心も体も、全存在が悲しい」という意味です。

ゲッセマネのイエスは、「悪霊よ、出ていけ」と言って、悪霊を追い出すイエスや荒れ狂う波風を「静まれ」と命じて、鎮めるイエスや、墓に納められているラザロに「出て来なさい」と、墓から蘇らせる力に満ちたイエスとは全く違います。十字架を前に、死を恐れる、頼りにならない、ファリサイ派からナザレの大工の息子でないかと軽んじられる弱々しい人間イエスです。福音書はどうして、そのような弱々しいイエスを描くのでしょうか。そこには深い意味があるはずです。その意味を考えてみたいと思います。

初代教会時代のギリシャ人はゲッセマネのイエスを軽んじました。ギリシャ人は哲学者のソクラテスを人生の師として仰いでいたと言われます。ソクラテスは正義のために、毒拝を仰いで死ぬことを命じられたとき、冷静に平然と死の道を選んだと言われます。ギリシャ人はソクラテスとイエスとを比べて、悲嘆にくれ狼狽するイエスは頼りない、信じるに価しないと批判したと言われます。多くのギリシャ人は苦しみに耐えられず、死を願うイエスを神の子ではないと否定しました。しかし、福音書やパウロは十字架を恐れ、苦しむイエスに、人生の真の救いと真理を見出し、信じ、悩み悲しむイエスをそのまま伝えました。

コリントの信徒への手紙Ⅰ1章24節に、「ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」とあります。パウロは十字架を恐れ苦しむイエスを「神の愚かさ」や「神の弱さ」という言葉に言い換え、十字架を悲しみ苦しむイエスでなければ、弱さをもった人の救いにれないと言っています。

ヘブライ人への手紙4章15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遇われたのです。」とあります。イエスは罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同じ試練と苦難に遇われました。それは、イエスが弱さをもち、恐れや罪に苦しむ者の救い主となるためです。マルコ福音書2章17節には「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とあります。弱い人、病気の人、罪に悩む人を救うために、イエス御自身が苦しまれ、悲しまれたというのです。イザヤ書53章4節には「彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」とあります。イエスはイザヤの苦難の僕のようにわたしたちの苦難を負ってくださったのです。精神科医の神谷恵美子さんは「ハンセン病の人は、わたしに代わって病を負ってくださった。申し訳がたたない」と言って、わたしたちが今あるのは彼らのお陰だと告白しています。

わたしの知人は、ガンを患い、激しい痛みと闘っていました。日曜日に、激しい痛みと闘いながら、礼拝から帰る家族を待つのが辛かったと言っていました。しかし、そのときが、イエスを一層親しく身近に感じ、イエスと自分が一体になる不思議な経験を持つことができたと言っていました。イザヤ書53章3節に「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」とあります。この「知る」は「一つとなる」と言う意味です。彼は、苦難の僕であるイエスは痛みと孤独を誰よりも深く、広く理解してくれる、そして、すべてを主イエスに委ねる信仰をもつことができたと告白しています。

五井昌久さんは「今までの宗教は、『ああしてはいけない、こうしてはいけない』と、生きるエネルギーを無理矢理に押さえ込む役割をしてきた。それは間違いではないかと思う。信仰は本来人間を自由に解き放すものである。信仰は神にすべてを委ね、託す道を選ばせる」と言っています。イエスは苦しみの中で、神に訴え、祈り、親しく交わり、神に委ねる道を切り開いてくださったのです。

39節に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままにしてください」とあります。42節には「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」とあります。イエスは神に委ねることによって、悲しみと恐れと苦しみを克服しました。同時に、悲しみ、苦しみに悩む者の救いの道を切り開いてくださいました。

「生と死のケアを考える」の著者カール・ベッカーは、「日本人は常に死に対して不安や恐怖を抱いている。それも、とくに日本人の男性が、死に対する不安や恐怖心が強い。その理由として、家庭での宗教や信仰の教育が無いことに関係があるのではないかと思います。死んだらなにも残らないというニヒル、虚無感、来世に対する信仰がないことに関係があると思う」と言っています。カール・ベッカーが言うことが正しいかどうかは分かりませんが、日本人でなくても、誰もが死の恐れに捕らわれ、虚無、罪、死の地獄に苦しんでいます。イエスは、死の恐れに捕らわれ、虚無、罪、死の恐怖に苦しんでいる者を、その恐怖と苦しみから解放しようとされているのです。ヨハネ福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とは、イエスが自ら、自発的にわたしたちの苦しみを引き受け、苦しみから解放してくださるというのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章10節には「神の恵みによって今日(こんにち)のわたしがあるのです。」とあります。パウロは、今日在るは神の恵み、神の一方的な恵みであると言います。イエスの優しい心を信じる信仰を改めて受け入れたいと思います。