イエスの復活を祝うイースター礼拝です。安息日は金曜日の日没から始まり、土曜日の日没で、終わります。安息日の開けた日、朝早く、マグダラのマリアともう一人のマリアとが、イエスの納められた墓を見に行きました。その時、大きな地震が起き、墓をふさいであった大きな石が脇に転がり、その上に天使が座っていたといいます。5節に「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい』」とあります。7節には「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい、『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』確かに、あなたがたに伝えました。」とあります。8節には「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」とあります。彼女たちは復活したイエスの栄光の姿に感動し、畏れを覚え、イエスを拝したと言います。
10節には、「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』とあります。弟子たちは彼女たちの言葉に従い、ガリラヤに行くと、イエスと出会うことができました。イエスと弟子たちの出会いは、ただの出会いではなく、決定的な出会いになりました。弟子たちは十字架を恐れ、イエスを裏切り、イエスを見捨てて、ガリラヤに逃れて来て、元の生活に戻っていました。元の生活に戻っていた弟子たちに復活したイエスが顕現し、出会ったというのです。
弟子たちが復活の主イエスに出会うと、弟子たちの中に大きな出来事が起こりました。自分の保身のために、イエスを裏切った弱い弟子たちが、復活したイエスのために命を賭ける芯の強い弟子たちに変えられたのです。失望落胆していた者が忍耐強い者に、絶望していた者が希望ある者へ変えられたのです。
神はイエスを復活させることによって、偉大な力をもった存在である事実を実証したのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章55節に、「死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。」とあります。パウロは「神は人間の最大の敵である罪の力に勝利し、人間にとって最大の関門である罪と死を滅ぼした」と言うのです。
詩編66編1節に「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ。神に向かって歌え、『御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。全地はあなたに向かってひれ伏し、あなたをほめ歌い、御名をほめ歌います。』」とあります。神の御力の賛美です。この言葉の背景には一つの歴史的出来事があります。エルサレムがアッシリア帝国の王セナケリブ軍に包囲され、滅亡の危機に直面していました。当時のユダの王はヒゼキヤです。ヒゼキヤはひたすら神を仰ぎ、神を信頼し、神に依り頼みました。すると、突然アッシリア軍は包囲を解き、首都ニネベに帰国し始めたのです。エルサレムは陥落寸前に救われたのです。神の不思議な奇跡的出来事でした。ヒゼキヤ王はヤーウェの神は驚くべき奇跡を起こす力を有する神であるとヤーウェの神を讃えました。66編5節に「来て、神の御業を仰げ、人の子らになされる御業を。神は海を変えて渇いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。」とあります。エジプトを脱出したイスラエルの人々の行く手には、前進を阻む紅海が広がり、背後にはエジプト軍の戦車と兵士が迫っていました。神は、その時紅海を二つに分け、イスラエルの人々を海の底の渇いた土地を渡らせました。イスラエルの民が渡り終わると、海は元に戻り、エジプト軍の戦車や騎馬は海の中に全滅しました。ヤーウェの神は力を有しているという信仰を実証した出来事です。詩編20編8節には、「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる」とあります。エジプト軍は力を失って倒れるが、我らは力を満ちて立ち上がると、神の復活の力を讃えています。この世は戦車と騎兵は頼り甲斐がいがあると、軍事力を誇り、目に見えないヤーウェの神は頼りにならないと無視し軽んじます。しかし、それは真実ではありません。目に見えないヤーウェの神は暗闇に打ち克つ光のように、エジプト軍を打倒しイスラエルの民に勝利をもたらせました。その目に見えない神の力を現したのがイエスの復活です。
パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰ15章で、キリストの復活について証をしています。14節には「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とあります。17節には「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」とあります。パウロは死の恐怖、虚無に打ち勝つ復活信仰を信じ讃えています。58節では、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」とあります。あなた方の労苦が、どのような苦労でも報われる。一つとして無駄、徒労に終わらないという信仰を復活信仰として述べています。その証拠として、神はイエスを死から復活させたというのです。
ある方は夫をガンで亡くし、人生の不条理にイエスの復活信仰を持って戦いました。しかし、それで終わりませんでした。今度は、悲しみがようやく癒えたてきたと思ったとき、彼女自身がガンであることが分かりました。しかし、彼女は主治医から悪性のガンであることを告げられたとき、不思議に冷静に受け入れることができたといいます。それは死を超えたイエスの復活信仰を受け入れていたからであると思うとおしゃっていました。彼女は希望をもって生涯を全うされました。死を超えた希望、それがイエスの復活信仰です。
神はイエスの復活を通して根源的な希望を与えようとしているのです。絶望的な状態に陥ってもなお失わない希望です。死を目前にして力を発揮する希望です。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7節に「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」とあります。神は、イエスの復活によって、根源的な希望を明らかにしてくださいました。ペトロの手紙Ⅰ1章3節に「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えてある、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」とあります。キリスト復活のもたらす希望、死に打ち克つ信仰が与えられるように祈りましょう。