テキストはマルコ福音書16章14-20節です。マルコ福音書は本来16章8節で終わっていましたが、後の時代に結び一、16章9-20節、結び二が補充され、現在のマルコ福音書になったと言われています。16章14節に「その後(のち)、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」とあります。この「十一人」は、イエスを裏切ったユダを除いた弟子たちのことです。その十一人の弟子たちが不信仰で、かたくなであったというところにマルコ福音書の編集の意図があると思います。十一人はイエスの愛弟子で、使徒と呼ばれ、教会を代表する人たちです。その教会を代表するような彼らが不信仰で、かたくなであったというのがマルコ福音書の主張です。「その後(のち)、十一人が食事をしているとき、」の「その後(のち)が、何にの後(のち)か、はっきりしませんが、十一人が復活の主イエスと出会い、信じるようになった。その後(のち)と考えられます。つまり、十一人は、信じる者になってからも不信仰で、かたくなであったというのです。この「不信仰」は、ギリシャ語で「アピストス」と言い、「ア」は「否定」、「ピストス」は「信仰」という意味です。つまり、「不信仰、信仰弱く、疑い深い」という意味です。つまり、十一人は弟子になっても、信仰を否定し、疑い深かく、疑いや問題を抱えていたというのです。つまり、マルコ福音書が弟子たちの信仰の弱さを隠さずに明らかにしているのは、弟子といっても、疑いや弱さや問題を抱えていた。むしろ、十一人が弱さや問題を抱えていなければ、弟子になっていなかったのではないかというのです。弟子たちが弱さや問題を抱えているという自覚がなければ、ファリサイ派の人々のように、人を裁き、罪人と決めつけ、自己絶対化の罪に陥ったのではないかというのです。
ルカ福音書18章11節に「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」とあります。ファリサイ派の人の祈りは、イエスが常に戒めていた傲慢で自己満足な祈りです。彼らは、自分たちは正しいと思い込み、他の人たちは誤っていると決めつけ、裁いているのです。その事実を認めているイエスは、弟子たちに、ファリサイ派の人々のように、自己を誇り、傲慢になり、他の人を裁かないで、謙遜で、寛容であることを求めているのです。
先に引用した16章14節に「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」とあります。15節には「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』」とあります。この「とがめる」は、「厳しくとがめる。恥をかかせる」という意味です。イエスが十一人に恥をかかせたというのは、不信仰でかたくなな弟子たちに失望落胆したのではないでしょうか。それなのに、弟子たちに「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と福音宣教を命じているのです。そこがイエスの愛の深さだと思います。イエスは一方で弟子たちに失望落胆しています。それなのに、矛盾していますが、他方で弟子たちに希望を持っているのです。このイエスの矛盾をどのように解釈したらよいでしょうか?ある人たちは、14節と15節とは、それぞれ全く別の時、別の場面で語られたのではないかと解釈します。しかし、それではマルコ福音書の意図を見失うと思います。つまり、14節と15節はイエスの矛盾ではなく、イエスの寛大と寛容を示しているのではないかと思います。
エフェソの信徒への手紙3章18節には、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか理解し、人の知識をはるかに超える愛を受け入れなさい」あります。イエスの愛、優しさ、寛容は理解できないほど大きく高く、深い。本質的には理解できのではないでしょうか。イエスは不信仰で、かたくななで、、罪深く、弱さをもった者を受け入れ、福音宣教に派遣されたのです。
マルコ福音書11章には次のような物語があります。イエスは、エルサレム入城の際に、弟子たちに、近くの村につながれていた子ロバをほどいて、連れて来なさい。もし、持ち主が「わたしのロバをどうするのか」と問われたら、「主がお入り用です」と答えなさい、と言われました。子ロバですから、一度も人を乗せたことのない、未経験な、不器用で、臆病なロバです。イエスは子ロバのような者を受け入れ、認め、肯定し、用いられるのです。ヨハネ福音書20章24節に、「12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」とあります。トマスは「主イエスが現れたという弟子たちの証言を受け入れることができないです。20章29節には「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とあります。本質的なのは、見ないで信じる。福音を聞いて、信じる信仰です。
ローマの信徒への手紙10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあります。パウロは、信仰は福音の言葉を聞くことから生まれると言います。言い換えれば、人間が謙遜にされると言うことです。「聞く」と言いますが、福音を宣べ伝えるのは罪深い人間です。限界ある人間の語る言葉ですから、聴く者は謙遜にならなければ、受け入れることはできません。パウロは、福音を受け入れることができなかったことを告白しています。彼は豊かな才能や能力を持っていました。若くしてエルサレムに留学し、最高学府のガマリエル門下で学び、最高の地位を得ました。そのために、無学で、ただの人であったイエスの弟子たちの伝える福音を聞き受け入れることができませんでした。弟子たちを軽んじていたのです。自分はなんでもできる、自分は偉いという誇りがある間は、福音の言葉を受け入れることができませんでした。しかし、復活の主イエスと出会い、キリストを信じ受け入れる者になると、無学で貧しい人々の伝える福音を受け入れることができました。誇りと傲慢が打ち砕かれ、謙遜にさせられたのです。イエスは弟子たちに謙遜を求めているのです。言い換えれば、イエスはわたしたちが遣わされている者として存在し、生きるということを求めているのです。十一人は「使徒」と呼ばれます。「使徒・アポストロス」と言い、語源は「遣わす・アポステロー」です。その受動態、「遣わされた者」のことです。18節に「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」とあります。主イエスはさまざまなこだわりや束縛に苦悩している人を自由にし、福音を委ね、神の使命をもって生きる者とされ、自分の力ではなく、神の力を信じ、神に遣わされ生きる者であるという信仰を与えてくださいます。