テキストは出エジプト記19章1-9節です。モーセの率いるイスラエルの人々は、エジプトを脱出して、3ヶ月経ち、シナイの荒れ野に到着し、シナイ山に向かって宿営をしていました。19章3節に、「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。』」とあります。イスラエルの人々のエジプト脱出を知ったエジプト軍はイスラエルの人々の背後からが迫って来ました。目の前には紅海があります。絶対絶命の時、神は紅海を二つに分け、イスラエルの人々を海底を歩いて渡らせました。イスラエルの人々が渡り終わると、紅海は元に戻り、エジプト軍は全滅したというのです。神の奇跡の出来事です。鷲はひな鳥を巣立たせるとき、翼に乗せて、飛ぶ訓練をするそうです。出エジプト記は、この神の救いの出来事を、「神はあなたがたを鷲の翼に乗せて、ここまで連れてきた」と言いう言葉で表しています。神は、鷲の親鳥のように、イスラエルの民を翼に乗せて運んで来たと言うのです。
申命記1章29節には「わたしはあなたたちに言った。『うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って進まれる神、主御自身がエジプトで、あなたがたの目の前でなさったと同じように、あなたがたのために戦われる。また荒れ野でも、あなたがたがこの所に来るまでにたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。こう言っても、あなたたちの神、主をあなたたちは信じなかったが、この方こそ、あなたたちの先頭に道を進み、あなたたちのために宿営の場所を探し、夜は火、昼は雲によって行く手を示された方である』」とあります。イスラエルの民はエジプトを脱出後、40年間も荒れ野を彷徨しなければなりませんでした。荒れ野の旅は苦難と危機の連続でした。神は、夜は火、昼は雲になって行く手を導き守ってくださったというのです。
出エジプト記16章2節には、「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』」とあります。イスラエルの民は空腹に耐えかねて神に不平不満をこぼしました。しかし、神は、彼らの呟きを咎めもしませんでした。16章4節に「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。』」とあります。神は夕方にはうずらを宿営の回りに置き、朝にはマナを備えたといいます。レフィディムに宿営したときは、飲み水がなくなりました。17章2節に「民がモーセと争い、『我々に水を与えよ』と言うと、モーセは言った。『なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか』しかし、民は喉が渇いてしかたがないので、モーセに向かって不平を述べた。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしたちも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか』 モーセは主に、『わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています』と叫ぶと、主はモーセに言われた。『イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』」とあります。神は彼らの呟きを聞き、岩から水を出して、彼らの渇きを潤したというのです。これら神の救いの業が、鷲の翼に乗せて運び、背負って連れてきたという表現になっているのだと思います。イスラエルの民の歩んできた旅を振り返れば、苦労の連続でした。もう駄目だと諦めたことが何回もありました。その度に神は、イスラエルの人々を背に乗せ運び、救ってくれたというのです。それは、彼らの功績や業績ではなく、神の一方的な恵みです。神は困窮したイスラエルの民を、愛と憐れみとをもって導いてくれたのです。神への信仰に立てば、勝利の恵みに立つことができるというのです。
ヨハネ福音書15章1-17節の「ぶどうの木の喩え」も試練と苦難に打ち克つ信仰の一つです。ヨハネ福音書の編集を見てみますと、13章ではイエスは最後の晩餐を行い、その席上で弟子たちの汚れた足を洗われました。そして、「互いに足を洗い合いなさい」と命じています。14章31節には「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおり行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」とあります。心弱くする弟子たちを励まし、弁護者である聖霊を与える約束をし、「さあ、立て、ここから出かけよう」で終わっています。そして、18章1節の「イエスは弟子たちと一緒に、キトロンの谷の向こうへ出て行かけられた。」で始まっています。つまり、15、16、17章を飛ばして、14章から18章に続けた方が構造的には自然です。しかし、ヨハネはそうしないで、15章、16章に説教を、17章に、最後の祈りを置いています。つまり、15,16,17章の3章は、16章33節に「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とありますように、十字架の苦難と死を目前にして、恐れ戸惑い、苦悩するイエスではなく、主体的に力強く十字架に向かうイエスが記されています。人生には多くの苦難と試練がありますが、それは苦難と試練に打ち克ち、永遠の命に導かれるためであるというのです。
「ぶどうの木の喩え」もイエスの積極的な言葉です。2節に「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」とあります。マタイ3章10節に「良い実をならせない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」、マタイ7章19節には、「良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる」とあります。イエスの厳しい倫理的、道徳的な教えです。しかし、ヨハネ福音書15章5節は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊に実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と、神の恵みの言葉、イエスの福音です。「豊かな実を結ぶ」は命令形ではなく、神の約束です。必ず実を結ぶ、積極的な恵み、勝利の約束の言葉です。
「ぶどうの木の譬え」の土台になっているのがイザヤ書5章1-7節の「ぶどう畑の歌」です。イザヤ書の「ぶどう畑の歌」の神は、良い実をならせないぶどうの木は一本残らず焼き払う厳しい裁きの神、罰する神です。それに対して、ヨハネ福音書15章の神は裁きの神ではなく、恵み深い赦しの神です。失敗や罪を赦す恩寵の神です。「つながる」は、断絶していたものが、再びつながって、交わりを始めることを意味します。イエス・キリストの聖霊と愛とが注がれることを意味します。イエスは「わたしもつながっている」と言います。イエスの一方的な愛と恵みです。イエスつがっていれば、どんな人生であっても、豊かに実を結ぶ。農夫である神が実を豊かに結ばせてくださいます。恵み豊かな神にいつもつながっていましょう。