与えられたテキストは個人の嘆きに分類される詩編39篇1-14節です。深い絶望の中に投げ込まれた人の詩で、詩編の中でも最も暗い詩編の一つであると言われます。この詩人は身近な人を亡くされたか、或いは、重い病に冒されてか、人生の孤独と虚しさに苦悩されています。しかし、その孤独と苦悩の中でみ言葉が与えられました。6節に「御覧ください、与えられたこの生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生は無に等しいものです。」とあります。14節には「あなたの目をわたしからそらせ、立ち直らせてください。わたしが去り、失われる前に。」とあります。この詩人は世を去る時が間近に迫っていると、悲嘆に暮れています。それはこの詩人だけの問題ではなく、普遍的な問題です。誰でも死を目前にすれば、不安と恐れ、諦め、虚しさ、絶望に襲われるのではないでしょうか。
キュブラー・ロスは「死の瞬間」という著書の中で「人は癌などの終末期の告知を受けると、絶望と虚無に襲われる。同時に、怒りと孤立の感情が湧き上がり、爆発させてしまう。また、他人を羨ましく思い、妬みをもち、人生を恨み、神を呪い、呟いてしまう。混乱して、人に躓きを与え、自分の名誉を傷つけてしまう」と述べています。2節に、「わたしは言いました。『わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしは口にくつわをはめておこう。』」とあります。「口にくつわをはめ」とは「口を堅く閉ざし、沈黙する」ことを意味します。キュブラー・ロスは「この詩人は言葉で過ちを犯さないようにと、強い意志をもって、沈黙を守りました。しかし、沈黙は彼をいら立たせ、苦しみを募らせ、殻の中に閉じこもらせ、問題を更に複雑化してしまった。しかし、そこで、初めて神に向かうことができた。」と述べています。
5節に「教えてください、主よ、わたしの行く末を、わたしの生涯はどれ程のものか、いかにわたしがはかないものか、悟るように。」とあります。詩人は自分の「行く末が」どうなっているのか、時間はどのくらい残されているのかを知りたいというのです。それを知ることは、自らのはかなさを一層深く知ることですが、敢えてそれを知ることによって、残された日々を悔いなく、生きたいというのです。
最近の医学は患者に病気の状況を詳しく告知するようになりました。患者が自分に残された時間を知って、最後の時間を有意義に過ごし、良き備えをし、尊厳ある生を全うするためです。しかし、キュブラー・ロスは言います。「自分の命のはかなさを知り、それを受け入れ、尊厳を全うすることは並大抵なことではない」と。カトリック教会のシスターの渡辺和子さんは「人間の尊厳を全うすることは、人間の最後の大きな仕事、大事業である」と言っていました。この詩人は、繰り返しになりますが、「教えてください、主よ、わたしの行く末を。わたしの生涯はどれ程のものか。いかにわたしがはかないものか、悟るように。」と言っています。この「悟る」は「色あせるもの、色あせないものかを見分ける」という意味です。詩人は自分の人生が如何に虚しいものであるか、同時に、如何に掛け替えのないものかを知るようになりたいというのです。
6節に「ご覧ください、与えられたこの生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生は無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも、すべて空しいもの。」とあります。「確かに」は「盛んに」という意味です。「立っている」は「生きている」という意味で、「空しいしい」は「息」という意味です。つまり、死を前にした者にとって、地上の如何なるものも、財産も権力も名声も究極的な拠り所になり得ないというのです。意訳すると、「ああ、人があくせく働き、地上で得たもの全ては、結局人の手に渡る。何も報われず、徒労と虚無に終わります。」となります。人生の真実を悟った詩人は、「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます」と言っています(8節)。言い換えれば、詩人の魂が神に向かっています。ここに、この詩人の救いとすばらしさがあると思います。始め詩人の心はちりぢりに乱れていました。しかし、神と向き合い、神の言葉を聴く祈りのときを持ったと思います。遂に、「何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」という告白に至っています。詩人の乱れた心が一点に集中し、わたしの希望は神自身ですという真理に至っているのです。
文芸評論家の江藤淳さんは1999年に、67歳で自死されました。誠実で真摯な江藤さんは病弱な妻を最後まで支え、妻のために生きることが生きる目的と言っていました。しかし、人生は不条理です。江藤さんの祈りは叶えられず、最愛の妻は亡くなりました。江藤さんの生きる目的と希望は失いました。「家内の命が尽きていない限りは、生命の尽きるその時まで一緒にいる、決して家内を一人ぼっちにしない、という明瞭な目的があった。それなのに、家内が逝ってしまった。今となっては、目的などどこにもありはしない。ただわたしだけの死の時間が、わたしの心身を捕らえ、意味のない死に向かって刻一刻とわたしを追い込んで行く」と記しています。江藤淳さんの自死は真実を教えてくれました。目に見えるものは、一時の目的になりますが、究極的な目的と希望になり得ないということです。江藤さんの高い知性も、教養も、究極的な支え、生きる力にはなり得ないという事実です。山折哲雄さんは、「宗教に使命があるとすれば、どのような人生にも意味と目的とがある事実を示すことであると思う」と言っています。
6節に「御前には、この人生も無きに等しいです。ああ、人は確かに立っているようでも、すべて空しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」とあります。言い換えれば、「わたしの希望はあなたの中にある」となります。もう一つ言い換えると「わたしの希望は、あなた自身です。わたしの希望は、あなたから生まれる」となります。
ローマの信徒への手紙4章18節に「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」とあります。パウロは、アブラハムを引用し、希望するすべもなかった時に望みを抱いて、信じた。地上的には希望はまったくなかったが、神から与えられた希望にかけたと言っています。ビクター・フランクルは人生には希望がないと絶望する人に言います。「人生に意味があるか、ないか。人生に希望があるか、ないか。それを決めるのは、あなたではありません。あなたが思い悩む以前から、生きる意味も、希望も、常に、既にあなたのもとに届けられているのです。あなたが人生に絶望していても、人生があなたに絶望することはありません。あなたが人生に何も期待も抱くことができなくなったとしても、人生があなたに期待を抱かなくなることはありません。希望は、常に、既に、そこにあります。あなたができるのは、その希望に目を開き、受け入れることです。ただ、それだけで、いいのです」と言っています。詩人は何も望みえない絶望の中で、神に望みをおくことによって、闇の中に一条の光を見出すことができました。神の希望を神の言葉におくことによって、死と空しさに打ち勝って生きる力が与えられます。